第467話 模型を取ってくる男

「先生、カルテが1行も書かれていません!」


 そう言ってオレは事務方に怒られてしまったが、カルテを書かなかったのには正当な理由がある。

 今からそれを説明させてくれ。


 その日、ようやく午前中の総合診療科外来そうしんがいらいが終わったのは午後1時過ぎ。

 コンビニざる蕎麦そばを食べていたらコールされた。

 午前10時に予約がありながら来院していなかった患者が今になって来たとのこと。

 断る方が面倒なので「すぐ行きます」と返事した。


 名前は普通の日本人だが顔のりが深い。

 なんと国籍は日本でありながら、ほとんどの人生をオーストラリアで送ってきた30代の女性だ。

 日本語は何とか理解できるが、しゃべるのは難しい。

 漢字に至っては自分の名前以外は書けないし読めないとのこと。

 だからオレが下手な英語でお相手する事になった。


 彼女は10日前に総合診療科そうしんを受診して血液検査と頭部MRIを撮影していた。

 その時に対応したのは別の医師だ。

 検査検査の結果説明を頼まれていた事を今になって思い出した。


 わざわざ日本の病院を受診したのは理由わけがある。

 オーストラリアの医療機関では血液検査や画像検査を簡単にはしてくれないし、値段も高いからだ。

 だからあまりややこしい事を言われない日本で検査を頼もう、という事だった。

 なるほど understandable理解できる な理由だ。

 ついでに1ヶ月ほど日本に滞在して私用を済ませたり観光したりする計画のようだ。


 オレの見たところ血液検査も画像検査も結果は特に問題ない。


 それを聞いて彼女は一応喜んでくれたが、現在は別の心配にりつかれている。

 1週間ほど前から左の下腿かたいしびれてきたというのだ。

 血栓ができたんじゃないかと思って、ピルの服用をやめたとのこと。

 でも、血栓形成を反映するDダイマーの血液検査結果は感度以下だ。

 おそらくは大丈夫だろう、それよりも……


 オレは注意深く左右の下腿の感覚を調べた。

 どうやら感覚障害は左L5(第5腰椎神経根)領域に一致していそうだ。


 それを確認するために座っている彼女の背中側に回り、上体を天井に向かって引っ張ることによって腰椎を牽引けんいんした。


「どう、しびれはマシになりましたか?」


 そうオレが尋ねると彼女は嬉しそうに答えた。


「改善した!」

「ということは腰椎が原因だな」

「痺れがとれたけど、良くなっているのは一時的なもの?」

「そうですね」

「一体、何が原因で痺れたりするの?」


 これを英語で説明するのは至難の業だ。


「腰椎の模型が私の部屋にありますから」

「じゃあ、行きましょう」


 いきなり彼女は立ち上がる。


「いやいや、ちょっと行って模型を取ってきます」


 こんな簡単な事でも英語で言うのは一苦労だ。


 わざわざ自分の部屋まで戻って模型を持ってきてくれるって。

 なんて素晴らしいドクターなんでしょう!


 そういう表情で見つめられたが、単に言葉での説明が難しいから模型に頼ろうって魂胆にすぎない。

 オレは部屋から取ってきた模型を示しながら説明した。


「いいですか、原因はこの神経根です。こいつが椎間板によって圧迫されて痺れが出ているんじゃないかと私は思います」

「治療はどうすんの?」

「手術は……」

「ええーっ、嫌だ!」


 途中でさえぎられた。


「手術は必要ありません、この程度であれば」


 最後まで言って安心してもらった。

 実際、少しずつ症状は良くなっているとのことだ。


 ということで英語での診断書を作成した。

  血液検査:問題なし

  頭部MRI:問題なし

  左下腿L5領域の感覚障害:腰椎をストレッチすると改善したので、腰椎椎間板突出によるものと推測する


 正しい英語になっているか、彼女に確認してもらった。


「突出(protrusion)?」


 何故か彼女はスマホで英単語を調べはじめた。


「あっ、ちょうどいい単語を思い出しました。ヘルニア(herniation)ですよ」


 そう書き直して納得してもらった。


「サンキューございます!」


 彼女は大喜びで診察室を出て行った。

 時計を見るともう午後2時だ、カンファレンスが始まる。

 オレは走ってカンファレンス室に向かった。


 院内PHSが鳴ったのはカンファレンスの最中だった。

 冒頭の「先生、カルテが1行も書かれていません!」という台詞せりふを聞かされたのはそのコールでのこと。

「何も書いていないので会計がコストを取っていいのか困っています」と怒られた。


 あのね。

 英語しかしゃべらない患者相手に診察して腰椎模型で説明して英文診断書を作成したわけ、オレは。

 それに加えてカルテの本文を書けって、そんな離れわざを出来る人がいるかね?


 オレはもうヤケクソだ。

 怒りながらカンファレンス室にあった電子カルテ端末に「診察終了。内容はのちほど記載予定」と打ち込んだ。


 でも、最初からこう書いておけば文句を言われなかったかもしれないな。

 いい考えはいつだってあとから浮かぶもんだ。


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