第460話 「破戒」を聴く男

 オレは空き時間に実体顕微鏡を使って血管吻合の練習をしている。

 鳥の手羽先てばさきとか手羽中てばなかを用いて直径1mmの血管を露出し、端側吻合たんそくふんごう端々吻合たんたんふんごうをする。


 ずっとやっていると鑷子せっし、いわゆるピンセットの先端が曲がってくるので新しいものを買わなくてはならない。

 鑷子は消耗品と言われるが、1本が数万円もするので私物で購入するにはいささか高価だ。

 ところが、アマゾンで調べてみると角栓かくせんとりのピンセットなら1本がせいぜい1000円程度。

 2種類ほど購入して使ってみると結構使えることが分かった。

 顕微鏡手術用のものと比べて若干重く、若干力がる程度で、練習には何ら差支えがない。


 ということでますます練習に力が入る。


 が、こういった基礎練習は退屈この上ない。

 だから、オレはスマホを横に置いて YouTube を聴きながらやっている。


 時事ニュースとか評論とかはもう聞き飽きてしまった。

 それに10分くらいのものだと、すぐに次のチャンネルを探す必要がある。


 かといってBBCニュースなどの英語は難しすぎて頭に入ってこない。


「もう少し楽で退屈しないものはないかな」と探していたら……

ありましたよ、小説の朗読だ。


 今は島崎藤村しまざきとうそんの「破戒はかい」を聴いている。

 全部で12時間ほどあるから、途中でチャンネルを切り替える必要はない。


 内外の名作と言われるものでも、これまでに読む機会のなかったものは沢山ある。

 読むのは面倒だけど、聴くのは面倒でもない。

 吻合練習の時に聴くわけだからちょうどいい機会だ。


「破戒」というのは明治時代の信州が舞台になっている。

 被差別部落出身の小学校教師、瀬川丑松せがわうしまつが自らの出自しゅつじを隠しながら生きる物語だ。


「いつ知られてしまうのか」「バレたらどうしよう」と苦悩しながら生きる丑松。

 親友がそれと知らずに部落の悪口を言ったりしても聞き流さざるをえない。

 そして被差別部落出身であることを公言している有名作家に傾倒する。

 つい皆の前でその作家を応援してしまっては不審がられてしまう。

 後で「バレたりしなかっただろうか」と心配したり反省したり。


 でも最後に丑松の出自が皆に知られてしまい、新たな局面に入るところで物語は終わる。


 ストーリーとしては単純すぎるほど単純だが、それが12時間の朗読、文字数にして約23万字の長編小説になったわけだ。

 聴いていてハラハラドキドキするのは、小説家としての島崎藤村の力量に他ならない。



 ある有名なピアニストは井上靖の「敦煌とんこう」を読みながらハノンを練習したそうだが、オレの場合は島崎藤村の「破戒」を聴きながら吻合練習をしたということになるのだろうか。

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