第455話 診断書を書く男
脳外科外来で電子カルテ相手に書類仕事をしていた時のこと。
研修医から電話がかかってきた。
「今、お時間よろしいでしょうか」
「うん」
「63歳の女性で交通事故に
救急外来か入院している患者の相談かと思ったら違っていた。
「要するに当直中に診た患者の診断書を作成したからチェックして欲しいということだな」
「そうなんですよ」
本来なら一緒に当直していたレジデントが研修医を指導することになっているが、多分オレの方がマシな診断書を書けるだろう。
10分かそこらの時間を
「患者IDを教えてくれるか」
「はい」
こちらの端末で確認しようと思ったが、現在使っている電子カルテでは書きかけの診断書を別の人間が見ることはできないシステムみたいだ。
1つの画面を2人で
「先生は今どこにいるのかな」
「救命センターです」
「脳外科外来に来ることはできるか」
「ええ」
ということで脳外科外来の電子カルテに研修医がログインしてオレが横から見ることにした。
診断書というのも色々あるが、今回のものは患者自身が加入していた損害保険会社のもののようだ。
すでに大半の項目が記入済みになっているが、細かい手直しが必要だ。
「まず、病歴のところだ。『自転車走行中に乗用車に接触した』とあるけど、先生が見ていたわけじゃないよな」
「本人から聞きました」
「その場合は『接触したとのこと』と
細かいことだけど目撃と伝聞は違っている。
「次に『当院の救急外来に搬入。』となっているけど体言止めは避けた方がいい」
「そうなんですか」
「ここは『搬入された』にしておこう」
患者が主語なら「搬入された」、救急隊が主語なら「搬入した」となる。
「既往歴が抜けているけど」
「その時に詳しく聴いていなかったんですよ」
「怪我に関係したものだけでいい。以前にも外傷で手術しているとか」
「そういうのは全くありませんでした」
高血圧とか糖尿病とか詳しく書かれても、保険会社の担当者にとっては面倒なだけだ。
事故や症状に関係したものだけにしておく方が良い。
たとえば、事故後に歩行障害が出たけど、以前から
その場合だと既存障害と外傷がどのくらいの割合で歩行障害に寄与しているかを判断する時の大切な情報になる。
「後遺障害のところが空白だけど」
「事故の日しか
「それは良くある事だな。『有』とも『無』とも言えないから『未定』のところに丸をつけておくのが無難だ」
これでほぼ完成だ。
プリントアウトして印鑑を押す。
「印鑑はもっているか?」
「ええシャチハタですけど」
「その場合、誰かが先生の名前のシャチハタを買ってきて、勝手に訂正印を押しても区別がつかんよな」
「確かに」
「もしそうなったらどうする?」
「いや……ちょっと」
オレもその1人だ。
「シャチハタといえども自分だけのものを作ればいいんだ」
そういってオレは自分のシャチハタをメモ用紙に押した。
「それを考えてオレは自分のシャチハタに目印をつけているわけよ。こことここに切れ目が入っているだろう。カッターで切れ目を入れたんだけどな」
「本当だ」
「こんな簡単な切れ目でも全く同じものを再現するのは不可能だろ。いわば『
「先生はギャンブラーだったんですか!」
いやいや、イカサマはオレの美学に反するんだけど。
研修医はずいぶん感心している。
「あと、先生だけの名前で診断書を発行するのも荷が重くないか?」
「重いです」
「法律上は問題ないけど、院内規定では微妙だろ」
あたかも研修医が単独で診断書を作成したみたいに見えると、揉め事のもとになりやすい。
「だからオレとの連名にするか、電子カルテの本文に指導医の名前を書いておいた方がいい」
「分かりました」
「その時に『〇〇先生の指導で東京海上日動の診断書を作成した』と書いても同姓の人間なんか沢山いるからな」
夫婦や兄弟で同じ病院に勤務していることなんかよくある。
同姓でも赤の他人ということも珍しくない。
「だからフルネームと職名にしておけば間違いないよな」
「そうですね」
ということでオレの熱血指導は終わった。
気づくと30分も
まあ研修医1人に教えておけば、いつの間にか全員ができるようになって……いないか、現実は。
教育ってのはザルで水を
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