第445話 「アンメット」を読む男 2

前回は「アンメット~ある脳外科医の日記~」の第1巻について、「ここが凄い!」と思うところを述べた。

今回は第2巻について語りたい。


その前にタイトルのアンメットとは何ぞや、という疑問を読者は持つと思う。

これは「アンメット・メディカル・ニーズ」の略だ。

患者からの医療ニーズがあるのに治療法のない疾患の事を指す。


資本主義の世の中、全世界で1億人いる病気と100人しかいない病気だったら、前者の治療薬開発に製薬会社が注力するのは当然だ。

でも個々の患者にとっては同病の人間が1億人いようが100人いようが関係ない。

かくしてアンメット・メディカル・ニーズは取り残されがちだ。


患者側からだけでなく、医師側からもアンメット・メディカル・ニーズに相当するものはある。


たとえば高性能の手術用顕微鏡だ。

ちょうど昨日、2023年5月19日は日本脳神経外科コングレス総会の初日だったが、ある高名な先生が講演で語っていた。

その先生は20年ほど前に自分の理想の手術用顕微鏡を作って欲しいと、とあるメーカーに依頼したのだそうだ。

すると、市場調査してみます、との返事。

その結果、市場にはそういうニーズがなかったので開発することはできません、というのが最終的な回答だったそうだ。


昨日の講演は、その先生の要求に沿った手術用顕微鏡を別のメーカーが完成させた、という話だった。

会場からの質問に答える形でメーカーの担当者が「『解像度を上げろ、もっと明るい術野が欲しい、ズームアップ・ダウンを瞬時にやれるようにしろ、被写界深度を深くしてくれ、光軸と視軸を一致させろ』という技術的に相反する要望を言われて大変でした」と苦労話を披露して聴衆の笑いを誘う。


また、講演の座長も「この世に存在しない物を作ろうとしているのに市場調査なんか役に立たん!」と本田宗一郎の言葉を引用した。

確か「ユーザーは自分のニーズが分かっていない」と言ったのはスティーブ・ジョブズだったのではなかったか。


オレも「こんな物があったら便利なのにな」と思う事が良くある。

以前は医工連携の会などで自分のアイデアを発表したりしていたが、色々な意味でガッカリさせられる事が多かった。

いつの間にか期待をしなくなった自分がいる。


前置きが長くなってしまった。

本題に入ろう。

第1巻からの続きなので、その4から番号をふりたい。



ここが凄い!:その4 主人公の脳外科医、三瓶知治さんぺいともはるが餅つきをしないところ


力仕事をすると顕微鏡手術の時に手が震えてしまうので、三瓶は院内行事の餅つきをしなかった。

なんか、ピアニストは箸より重い物を持たない、という諺を思い出してしまう。

昔、「俺は日曜日にゴルフをしているから、月曜日に予定手術を入れるな」と言う脳外科医が実在した。

でも「手術があるから引退するまでゴルフはしない」というのが本当じゃないのか、と当時のオレは思っていたし、今でもそう思う。

どちらにしても、餅つきは避けるに越したことはない。



ここが凄い!:その5 左手で箸を持って食事をするところ


顕微鏡手術では両手を同じように使えなくてはならない。

だから三瓶は左手で箸を持って食事をしている。

オレも研修医の時に、偉い先生から左手で箸を持て、と言われた。

しばらく頑張ってみたが、食事なんかできたもんじゃない。

いつの間にか箸は右手に戻ってしまった。

でも、右利きなのに左手で箸を持っている同僚はチラホラ見かける。

それぞれに黙って努力しているのかもしれない。



ここが凄い!:その6 「患者が嘔吐すると」についての笑い話


こんな笑い話が披露されていた。

「患者が嘔吐すると、内科医は胃カメラを持ち、耳鼻科医は耳の検査鏡を持つ」というもの。

三瓶は「僕だったらCTですかね」と自虐的に語っている。

そして「全ての疾患を瞬時に見分けるなんて到底できないんです」と付け加えた。

これに対して救急医の星前宏太ほしまえこうたは「それはあくまで医者側の都合だろ」と反論する。

というのも星前の母親は「ここじゃ分からない」と診療科をたらい回しにされて手遅れになってしまったからだ。


全ての疾患を瞬時に見分けるという見果てぬ夢を追い求めるのが救急医や総合診療医かもしれない。


ちなみに、星前の母親は視力障害、眩暈めまい、食欲不振、体重減少と症状が進み、大学病院で1年間もあちこちの診療科にかかることになった。

最後についた診断はオレも予想しなかったものだ。


この経験から星前は自分が全科で専門医レベルになろうという目標を立てた。

まるで風車に挑むドン・キホーテだけど、素晴らしい心意気だと思う。



ここが凄い!:その7 星前の努力が実る


下垂体腺腫の出血による視力障害に対して、三瓶が手術で見事に腫瘍を摘出した。

ところが予想外の血圧低下に見舞われてしまう。

その時、術前に星前が出していた血液検査の結果が返ってくる。

なんと副腎不全をきたしていたのだ。

だからステロイド注射1発で窮地を脱することができた。


確かに視力障害を来すほどのサイズの下垂体腺腫なら副腎皮質刺激ホルモンACTH分泌低下による副腎不全や、さらにはショック状態になることも理屈上はあり得る。

でも、なかなか思いつかないし、オレ自身も経験した事がない。

そもそも術前の血液検査項目にコルチゾールを入れておいたのが星前の周到さだと思う。

全科で専門医レベルになろうとしている星前の努力が実った瞬間だ。



「ここが凄い!」のあとで1つだけツッコミを述べておこう。


先の視力障害を来した下垂体腺腫の患者。

三瓶も星前も「眼科医が即座に対応してくれない」と憤っているが、それはちょっと違うんじゃないかな。

一側の視力障害なら原因は目にある事が多いが、両側の視力障害なら下垂体腺腫や全身疾患を想定すべきだろう。

この患者の場合、対座法で視野を確認したら両耳側半盲りょうじそくはんもうがあったはずだし、もしそうなら眼科医の手を借りずとも下垂体腺腫を診断できたはず。


三瓶! 

星前! 

2人揃って外すなよ。



ということで、第2巻についても同業者の目線で「ここが凄い!」という部分を語らせてもらった。


この漫画を読む時の参考にしてもらえると嬉しい。



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