第436話 次の次に備える男
脳神経外科の顕微鏡手術。
それは脳外科医を脳外科医たらしめている
拡大された術野では、くも膜、動脈、静脈、神経……すべてが明瞭に見える。
何よりも立体感が半端ではない。
たとえて言えば、30階建てのビルの屋上から長い箸を使って路上におかれた皿の上にサラダの材料を並べているような感覚だ。
このような状況で手術操作の感覚を養うのは一朝一夕には不可能だ。
だから、オレは助手にも手を出して手術に参加するよう
たとえば先日の未破裂脳動脈瘤の手術。
前頭葉と側頭葉の隙間から操作して病変部に
開頭が終わり、硬膜を切り、脳表が露出される。
目の前に横たわるシルビウス静脈と前頭葉の間からアプローチするのがよさそうだ。
オレは左手にマイクロ
くも膜を左手の鑷子で引っ張り、右手の剪刀で切るわけだが、刃物というのは適度な緊張があってこそよく切れる。
なので、オレの右側に直角に座っている助手がくも膜の反対側を引っ張ると格段にやり易くなる。
ちなみに
顕微鏡手術では先端が0.3mmくらいの極端に細いものを使う。
1本が何万円もするので丁寧に扱う必要がある。
また
これまた繊細にできており、刃渡りが数mm程度、値段は10数万円する。
「そっち側のくも膜を鑷子で引っ張ってくれるか」
「こうでしょうか?」
助手をしているレジデントはおっかなびっくりだ。
「指が震えないように、手の一部をどこかにあてて固定しておけ。小指を
「ええ」
自信が有ろうが無かろうがやってもらわなくてはならない。
助手はくも膜の切れ目をうまく鑷子で
「よし、この状態で切っていくからな」
オレは右手の剪刀で慎重にくも膜を切っていく。
うっかり血管を一緒に切ってしまったら出血で見えなくなってしまう。
それどころか患者に手足の麻痺などの後遺症が出ることもある。
特に細い血管と血管の間のトラベキュラと呼ばれる線維は慎重に切らなくてはならない。
刃先が右にずれても左にずれても血管を切ってしまうからだ。
このときに助手が絶妙な力で脳やくも膜を引っ張っていると刃を当てただけでスッと切れる。
だから助手の役割は大切だ。
ただ、術者によっては自分一人で何でもやってしまう者もいる。
こうなると助手はアシスタントスコープを
しかし、見ているだけではいつまで
手術に積極的に参加してこそ、その
「おっ、なかなか上手に引けるようになってきたじゃないか。どうやら先生とオレの心が通じ合っているみたいだな」
「恐れ入ります」
手術中、オレは心の声をすべて言葉にして出すようにしている。
そうすれば、術者が何を考えているかが分かり、不測の事態に周囲も一緒になって対応できるからだ。
「そろそろ吸引管を4Sから4Mに変えよう。
術野が深くなるにしたがって、使う手術器械を長いものに変更する。
浅い術野なら短い器械、深い術野なら長い器械を使わなくてはならない。
もし浅い術野に長い器械をつかったら、左手に持った茶碗の御飯を右手の
徐々に助手の手の動きがこなれてきた。
一々指示を出さなくても、先を読んでアシストしてくれる。
オレの第3の手と言っても過言ではない。
いよいよ動脈瘤に到達した。
薄い壁を通して渦巻く血流が見える。
顕微鏡の向きを変え、クリップをかけるのに最適な方向から観察する。
慎重にクリップをもっていき、徐々にブレードを閉じた。
「ふう、何とかかかったな。ちょっと甘い気もするけど」
そうオレが言うとギャラリーから声がかかる。
「高齢者なんで甘いくらいでちょうど良いですよ。このままにしておきましょう」
クリップの後にICGという蛍光色素で造影する。
動脈瘤が閉塞され、正常血管に血流が残っていることを確認するためだ。
幸い、意図したとおりにクリップがかかっている。
「なかなかいいアシスタントだったな」
オレは助手に声をかけた。
「手術の最初に比べたら、最後の方はなかなか上達していたぞ」
「ありがとうございます」
「次は先生が術者になれそうか?」
「いや、それは無理です」
「じゃあ、次の次くらいだな」
実際のところ、助手から術者への昇格は1例や2例では無理だ。
何十例も助手をして「自分の方が上手いんじゃないか」と思うくらいになってからの事になる。
それでも実際に術者をやってみると全くダメで途中交代ということも珍しくない。
でも見ているだけでは上手くなれない。
だから、とにかく助手には手術に参加させるというのがオレの方針だ。
オレも若い頃にもっと積極的に参加させてもらっていたら……と思わなくもない。
でも、その思いが今のレジデント教育の駆動力になっているのだと思う。
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