第408話 毎日勉強する男

 カルテを見ておどろいた。

 髄液中の水痘・帯状疱疹ヘルペス・ゾスタ―ウイルスが異常高値になっている。

 担当医はアシクロビルを倍量にして予定の2倍の期間の投与を続けるみたいだ。



 事の発端は3日前。

 たまたま救急外来を通りかかったオレは研修医に呼び止められた。


「この方、ヘルペスだと思うんですけど、頭を左に回すと異常に頚を痛がって」

「それで?」

「ひょっとして髄膜炎じゃないかと思うんですよ」


 髄液を確認したいということか?

 ストレッチャーに寝ているのは高齢男性。

 右頸部に瘡蓋かさぶたを伴った皮疹が多数見られる。



「ということは腰椎穿刺ようついせんしが必要みたいだな」

「でも、やったことないんですよ」

「じゃあ、オレがやるか」


 本当はオレの監督のもと、自分が穿刺したかったんだろう。

 研修医ってのはそんなもんだ。


 でも、今の会話、患者に筒抜けじゃないか。

 患者だって初めての人と分かっていて刺されたくないだろう。

 実際、ウン十年前、オレが初めて腰椎穿刺した時は30分以上かかった。

 今なら30秒もかからない。


 腰椎穿刺というのは背中から長さ10センチの針を刺して髄液をとる手技だ。

 穿刺にはちょっとばかり、技術が要る。


「じゃあ、座位ざいで穿刺しよう。その代わり圧測定は諦めるけどな」

「座位ですか?」

「それが必勝法だ。外すときは左右にズレるんだ」


 普通は側臥位そくがいになってエビのように丸くなってもらう。

 そして腰のあたりで背中から刺す。

 でも刺しても刺しても当たらない時がある。


 だからオレは患者に座ってもらって後ろから真直ぐ刺す。

 横に寝るから外すのであって、座っている後ろから真直ぐ刺したら外さない。


「いいか、局所麻酔はできるだけ細い針を使う」

「はい」

「そして、正中から真直ぐに刺すと……よし入った」


 針の尻尾からは透明な髄液がポタッ、ポタッと落ちてきた。

 髄液一般、細菌培養、ウイルス検査用の検体をとる。



 30分ほどして髄液一般検査の結果が返ってきた。

 細胞数はたったの7個だ。


 オレは救急外来の外で待っている奥さんに声をかけた。


「髄液検査の結果ですが、細胞数が7個でした。髄膜炎ではないですよ」

「髄膜炎だったらもっと多いのですか?」

「ウイルス性だと細胞数が2ケタ、細菌性だと3ケタくらいですね」

「そんなに」

「細菌性だと強力な抗菌薬治療が必要です。ウイルス性なら自然に治ります」

「で、主人の場合は?」

「細胞数が1ケタなんで心配要りません。ただ、ヘルペスの皮膚症状が強いので、念のため入院してもらって点滴で抗ウイルス薬を使いましょう」

「どのくらいの入院になるのでしょうか?」

「皮膚科の先生の判断になりますが、普通は1週間くらいです」

「分かりました、よろしくお願いします」


 経口薬での治療でも良かったかな、と思いつつ皮膚科に入院とした。



 他科に入院しても、オレは時々カルテを見て経過を追うようにしている。

 それが1番勉強になるからだ。


 で、仰天する羽目になったのは冒頭に述べた通り。

 あの透明な髄液からヘルペス・ゾスターが検出された?

 ヘルペス髄膜炎、もしかしたらヘルペス脳炎ってことか。


 勘弁してくれよ。

 細胞数なんかたったの7個だったじゃないか。


 もうオレは何を信じて生きていけばいいわけ?


 さすがに皮膚科医の対応は速かった。

 抗ウイルス薬のアシクロビルを倍量にする。

 そして、当初の予定だった1週間の点滴期間が2週間になった。

 さらにステロイドのパルス療法。

 これは大量のステロイドをごく短期間だけ使うというもの。


 それにしても、救急外来で腰椎穿刺をしておいて良かった。

 髄液をウイルス検査に回したのも、患者を入院させたのも、どちらも正解だった。

 あの時は「やり過ぎかも?」と思ったけど、決してそうでは無かったわけだ。

 ヘルペス脳炎なんかこじらせたら生命にかかわってしまう。


 恐ろし過ぎる。

 もう毎日が勉強です!


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