第406話 先発完投する男
「
離被架ってのは術野の清潔エリアと不潔エリアを分ける仕切りだ。
単なる鉄の棒だけど、案外重要な役割を持っている。
ここに
開頭手術では離被架を患者の肩の位置あたりに固定する。
が、術者によってその位置は微妙に違う。
術野から遠い近い、高い低いなど、色々だ。
通常、術者が手洗いをしている間にレジデントがセッティングしておく。
とはいえ、術者が気に入らず、必ずといっていいほど修正が加わる。
だから適当につけておけばいいだろう、とオレは思っていた。
そして、「どうせ荒尾先生が戻ってきたら直すから」と言った。
すると、レジデントの
「荒尾先生はもう帰ってこないですよ」
「ええっ?」
驚いた。
「今日は外来日なんで、こっちで開頭しておいてくれって」
「それでか。やけに何度も頼まれるな、と思ってたよ」
1週間ほど前から荒尾先生には顔を見るたびに頼まれていたのだ。
「今度の手術はよろしくお願いします」と。
考えてみれば、今日は荒尾先生の外来日だ。
他の日に手術を入れられなかったので開頭をオレに頼んできたのだ。
今になって
「いやあ、先生は知っておられるのかと思っていました」
もう1人のレジデントの
「開頭を丸ごと頼まれているなんて知らなかったよ」
「硬膜の切開まで確認してたからてっきり……」
「いやあ、当事者意識が全然なかった。すまねえ」
そう言いながら、ここまでの一連の流れを思い出した。
先ほど患者の頭部を固定してから荒尾先生とは打ち合わせした。
皮膚切開、開頭、硬膜切開に至るまで。
今日は
「皮切はホッケースティックじゃなくてS字形で行こうと思っています」
「なるほど、すると
「しません」
必要最小限の開頭にしようってわけだな。
「
「じゃあ、硬膜切開は?」
「
オレは何でも打ち合わせが好きなので、硬膜切開の形まで尋ねた。
助手だったら普通はそこまでは確認をしない。
再び現在の手術室に意識を戻す。
「外来といっても終わるのは昼を過ぎるんじゃないかな?」
オレなんか午前中の外来が14時過ぎまでかかることも珍しくない。
開頭だけだったら1時間か、せいぜい2時間までだ。
荒尾先生の外来が終わるまで待ってたら
「開頭して時間が余ったら腫瘍も取っておいたらどうですか」
だからオレも合わせてやった。
「荒尾先生が来たら、『腫瘍もとっちまったよ、御免ね』って言おうか」
「『
「ガッハッハッハ!」
3人で笑った。
「あっ、荒尾先生。もう外来は終わったの?」
オレはレジデントたちの肩越しに誰もいない空間に声をかけた。
その瞬間、2人のレジデントが固まってしまった。
「ビビったか?」
「驚きました!」
「今のギャグは
荒尾先生が遅れるにしても、開頭が終わったら入念に止血しておこう。
オレを含めて止血もそこそこに
「本当はマイクロ操作の前によく止血してからにした方がいいんだ」
「そうなんですか」
「今日は時間があるから親の仇みたいに止血しておこうぜ」
そんな事を言っていたら本当に荒尾先生が登場した。
「あれっ、先生外来はどうしたわけ?」
「そんなもん、1人50秒で片付けましたよ」
それでこそ脳外科医だぜ。
「眠れない」とか「膝が痛い」とか、そんな愚痴に付き合う時間はない。
ちょうど開頭も済んだところなので、荒尾先生にバトンタッチした。
そこで手を
その後は順調にマイクロ操作、閉頭と進んだみたいだ。
翌朝のこと。
顔を見るなり、荒尾先生に御礼を言われた。
「昨日はありがとうございました。マイクロから入ると体が楽でした」
「ピッチャーみたいに先発、中継ぎ、抑えと分業にした方がいいかもな」
「そうですね」
たまたま一緒にいた受け持ちの汐先くんにはこう言っておく。
「先生の場合は先発完投で助手をつとめないとイカンけど」
「頑張ります」
彼は神妙な顔で返事した。
レジデントってのは修行中だからな。
術者は交代しても、助手は交代したりしない。
たとえ12時間の手術でもずっと入りっぱなしだ。
昨日の汐先くんの不穏な発言は黙っておいてやろう。
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