第403話 泣き出した男 5

(前回からの続き)


「ヒースロー空港で会おう」


 そう言ったのはマーティンさん。

 彼はブリティッシュ・エアのキャプテンをしている。

 実は2人の子供を残して奥さんが亡くなってしまったのだ。


 それは何でもない扁桃摘出術のはずだった。

 全身麻酔をかけるために麻酔科医が気管挿管きかんそうかんをしようとした。

 が、何故かうまく入らない。

 ごくまれに口や喉、気管の位置関係で挿管の難しい人がいる。

 一見、健康な若い女性に見えた奥さんが実はその1人だったのだ。


「あれっ、おかしいな」


 そう思いながら麻酔科医は何度も挿管を試みた。

 でも上手く入らない。

 術者の耳鼻科医たちも異変に気づいて集まってきた。


「一旦、マスク換気に戻るか」


 そう思ったが今度はマスクフィッティングがうまくいかない。

 そうこうしているうちに酸素飽和度が下がってくる。


 典型的な「挿管不能換気不能Can't Intubate Can't Ventilate」と言われる状態だ。

 略してCICVと呼ぶ。


 これは死に直結する緊急事態だ。

 こういう時は覚醒させて仕切り直すのが1つの方法。

 思い切って輪状甲状靭帯切開を行うのがもう1つの方法。

 あるいは、前々回に述べた幾つかのトリックを用いることもある。


 が、てして人は自分が緊急事態に陥っている事に気づかない。

 麻酔科医は気管支鏡を持ち出した。

 それを使って挿管するためだ。


 が、緊急事態に複雑な手技を試みてどうする?

 指が震えている状態では上手くいくはずもない。

 案の定、挿管できなかった。


 結局、奥さんは重篤じゅうとくな低酸素脳症となり、数日後に帰らぬ人となった。



 マーティンさんは医療事故調査を通じて、その全貌を知った。


 そもそも、麻酔科医も術者もCICVに陥っていることに気づいていない。

 せっかく耳鼻科医がいたのに何で輪状甲状靭帯切開をしなかったんだ。

 彼らこそ数少ないスペシャリストじゃないか!


 航空業界でも事故やニアミスは起こる。

 が、それに対するアプローチは医療界よりも遥かにシステマティックだ。

 そうした状況に警鐘を鳴らそうとマーティンさんはビデオを作った。

"Just A Routine Operation" というタイトルだ。

 日本語にすれば「いつもの手術なのに」くらいになるだろうか。


 今では日本の医療従事者間でもこのビデオは良く知られている。



 で、ここからがカクヨム読者に披露する舞台裏の話だ。


 実は10数年前の事。

 このビデオの存在を知ったオレの妻が、日本にも広めようと考えた。

 まだ YouTube が普及する以前の話だ。


 それで、当のマーティンさんに使用許可を得ようとコンタクトした。

 返ってきたのが冒頭の「ヒースロー空港で会おう」という台詞だ。

 さすがにキャプテンらしい場所を指定してきた。


 もちろん、その事だけでイギリスまで行くわけにはいかない。

 妻は現地で色々な用事を一緒に片付けた。



「あのビデオを見たらマーティンさんって、ちょっと暗い感じでしょ?」


 帰国した妻に言われたオレは答えた。


「そりゃあ幼い2人の子供を残して亡くなったんだ。暗くもなるだろ」


「お悔み申し上げます」とか「どうか落ち込まないように」とか。

 妻は英語での表現を山ほど練習してヒースロー空港に到着した。

 ところが現れたのは、やたら明るいオッサンだったのだそうだ。


「ガッハッハ。地球の裏側からよく来たな!」


 人違いか、と思ったほど調子の良いマーティンさん。

 聞けば、最近になって再婚したのだそうだ。

 若くて美人なお母さんができて子供たちも大喜び!


「再婚って? オレの気持ちはどうなるんだ!」


 オレが想像していたのは悲嘆にくれるマーティンさんだ。

 一生悲しんでいてくれよ。

 何で再婚なんかするんだ、マーティン・ブロムリー!


 もちろんこのビデオを日本語訳して講習会で使う許可は得た。

 狙い通りビデオは医療従事者たちに衝撃を与えることになる。

 中には涙ぐむ受講生もいたくらいだ。


 でもなあ。


 このビデオの主人公が再婚していたとは!

 口が裂けても受講生たちに言うわけにはいかない。


 何もかもぶち壊しじゃないか。


(最終回に続く)

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