第397話 恐怖に立ち向かう男

 ある偉い先生の話。

 1年間に1万針いちまんしん吻合ふんごう練習をしているそうだ。


 週になおせば約200針。

 もちろん毎日練習できるわけではない。

 週5日として1日40針だ。


 実体顕微鏡を使って0.1~0.2ミリ間隔で縫うのは極端に疲れる。

 オレ自身は20針も縫ったらヘロヘロになっちまう。


 が、それを週5日!

 手術が有ろうが無かろうがずっと練習を続けるなんて普通はできない。


 で、オレの場合は吻合手術が決まってから鳥の手羽先てばさきで練習を開始する。

 先に述べたように毎日20針程度だ。


 回数をこなすのが目的ではない。


 いかに確実にねらった所に針を入れ、思った所から針を出すか。

 どうスムーズに2本の鑷子せっしを使って結紮けっさつを行うか。

 直径1ミリの血管のどこから始めてどの順番に縫っていくか。


 それを試行錯誤し、少しずつ改善を続けながらの練習だ。


 幸いなことに最近は YouTube で内外の名人が手術手技を披露している。

 これはすごく参考になる。


 たとえば血管壁に針を刺入しにゅうする動作。

 空中でヒラヒラしている布に右手に持った針を刺す難しさを想像して欲しい。

 こんな状況ではできたもんじゃない。

 布を3点で固定し、その三角形の中に針先を入れるべきだ。


 洋裁や和裁でどう工夫しているのか、オレは知らない。

 たぶん何らかの形で布を固定しているのだろう。


 オレは手羽先てばさきを使った練習で散々苦労した。

 血管壁への針の刺入を意識しながら再度、動画を確認する。

 すると名人たちは驚くほど共通の動作をしていた。

 つまり、左手の鑷子と下に敷いた綿片めんぺんで巧みに血管壁を固定していたのだ。


 YouTube に自らの手術をアップするくらいだから自信があるのだろう。

 確かにそれだけの技量はある。


 血管壁への針の刺入以外にも参考にすべき点は沢山あった。

 針の持ち替え、結紮時の糸の長さ、何回結ぶか。


 オレ自身も練習しながら創意工夫を積み上げる。


 たとえば……


 針の持ち替えは左手の鑷子で糸を持つべきだ。

 針自体を持つと飛ばしてしまうことがある。


 糸の結紮では、左手の鑷子で持つのは向かって右の糸だ。

 ループを作って右の鑷子で拾いにいく糸は短い方がいい。

 さもなくば蝶々結びになりがちだ。


 第1結紮の時に糸に折り目をつけておくと第2結紮で拾いやすくなる。


 結紮後に切り口と糸が直角にならなければ結紮を追加して修正する。

 1時方向の糸には上から、5時方向なら下から右手の鑷子でループを作る。

 そうすれば結紮後の糸は3時方向におさまり、隣の結紮と干渉しない。


 そういったノウハウを積み上げていく。


 色々な動画を見て練習していると次第に目が肥えてくる。

 名人たちの手術の中にも「なんだかな」と思う部分があることに気づく。

 少しはオレも上達したということか。


 もちろん手術は結果がすべてだ。

 正しい手技で結果が悪いより、デタラメな手技で結果良好な方が良い。

 名人たちが良い成績を上げているなら、たとえ我流でもそれが正義だ。


 他人は他人、自分は自分。



 数日後に血管吻合を行う症例は中年の男性。

 手術説明の時には綺麗な奥さんと素直で良く笑う娘さんが同席していた。


 オレが失敗したらこの幸せな家庭を破壊してしまうことになる。

 母娘の泣き顔を想像するのは正直、恐ろしい。


 日々の修練だけが手術に立ち向かう恐怖を忘れさせてくれる。


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