第369話 役所に行く女 2

(前回からの続き)


今回は「屁理屈へりくつ」の実際について述べたい。



その中年男性はスタスタと歩いて診察室に入ってきた。


「先生、久しぶりっ!」


奇抜きばつ恰好かっこうをしているが、本業はミュージシャンだ。

本人がそう名乗っているが、何か聴かせてもらった事はない。


受診の目的は身体障害者手帳をとりたい、というもの。


「俺のウチのトイレは和式なんだよね。でもしゃがむと立てないから」


すでに精神障害者保健福祉手帳は持っているが、それでは足りないらしい。


この人は10年ばかり前に頭部外傷で生死の境を彷徨さまよった。

多少の障害が残ったものの、見事に復活して元気になった。


そう聞くと美談だが、現実はそうでもない。


そもそも頭部外傷というのが、女にふられて自爆したというものだ。

語るのも恥ずかしいので自爆の内容はオレに聞かないで欲しい。


元気にはなったものの、自宅の和式トイレが使えない。

一旦しゃがむと、ふらついて立てないのだそうだ。

何しろ生活保護なので贅沢は言えない。

和式とはいえ水洗であるだけマシともいえる。


だから「大」の時は近くのコンビニを利用している。


「『トイレお借りします』と言ったら『どうぞ、どうぞ』と言ってくれるのよ」

「もう顔をおぼえられているんでしょうね」

「『大』って、いつ来るか分からないでしょ? 朝のときもあれば夜のときもあって。全部のシフトの人が俺の顔を憶えていると思うんだよね」

「トイレを借りたら何か買ってますか?」


オレ自身はコンビニのトイレを借りたら必ず何かを買うようにしている。

人の乗り降りなんかで駐車場を借りた時もだ。


「いやあ、買う時もあるけどね」


大抵の時は買っていないのか。

でも、生活保護の人に毎回お金を使えというのも酷な話かもしれない。


「じゃあ、トイレを借りたら掃除しておいたらどうですか。きっと喜ばれますよ」

「俺なんかが掃除してもいいのかな?」

「そりゃあいいですよ。アルバイトの人たちも仕事が減って嬉しいでしょう」

「じゃあ、今度から掃除させてもらおっか」


この人、ミュージシャンという職業柄か調子がいい。



そうそう、身体障害者手帳の話だった。


役所で相談したら3人ほど担当者が出てきて言われたそうだ。

「とりあえず身体障害者手帳を取ってください。多分『体幹』でしょうね」と。

手帳があれば和式トイレを洋式にするための補助が出るのかもしれない。


身体障害者手帳(肢体不自由)というのは通常、手足の欠損や麻痺が対象になる。

が、実は手足以外に体幹という項目もあるのだ。

つまり、手足は動くが失調があって短時間しか立っていられない、というもの。


この人、地下鉄の階段でも必ず手摺てすりを使っているそうだからふらつきもあるはず。


前回、「オレの仕事は制度を調べることではなく屁理屈を考えることだ」と述べたが、まさしく今がその時だった。


身体障害者手帳作成マニュアルをひっくり返して調べてみる。

平成初期に出版されたボロボロのもので表紙には「捨てるべからず」と書かれているが、こういう時に重宝する。


すると……

あった、あった、ありましたよ!


「著しい障害」(5級)とは体幹の機能障害のために2km以上の歩行不能のもの


これだ!

2kmって結構な距離でしょ。


「2キロくらいは歩けますかね?」

「無理、無理。そんなの歩けないよ」


オレでも2kmも歩けるかどうか、自信がない。


こういう判定基準ってのは一般に厳しいものだが、妙にハードルが低い部分もある。

それを見つけ出すのがオレの仕事だ。


「じゃあ、何メートルなら歩けますか?」

「休み休みだったら300メートルぐらいかな」


よしっ、体幹五級いただき!


「最大限に頑張って診断書を作成しますけど。これが通るかどうか、どんな補助が受けられるかは役所の判断になりますから」

「うん、分かってる。俺もベテランだからね」


ベテランというのは生活保護歴のことか精神障害者歴のことか。

たぶん両方だろう。


「先生、ありがと~う ♪♪」


そう鼻歌を歌いながら自称ミュージシャンは帰って行った。


(次はありがちな事案について述べます)



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