第360話 凡事徹底する男

手術室でいきなりレジデントに気管切開きかんせっかいを頼まれた。

というのも、彼が助手をする手術が長時間になりそうだからだ。


ICUの患者に気管切開をするのだけど、主治医は別の手術の最中だ。

要するに2人で同時に3つの手術をする羽目になったという事らしい。


とりあえずオレの姿が目に入ったのでオレに頼んできたのだろう。


「やるのはいいけど、助手は誰かやってくれるのか?」

「手が空いていそうなのは園崎そのざきねえさんくらいですかね」

ねえさん?」

八津川やつがわ先生の事ですよ」


彼女、陰で「姐さん」と呼ばれているのか。

あまりにもピッタリのネーミングにちょっと笑っちまう。


そんな話をしていたら園崎くんがフラッと手術室に入ってきた。

これで助手は決まりだ。



一口ひとくちに気管切開といってもバリエーションは色々ある。

気管を露出して直接切る方法と喉を穿刺せんしする方法の2種類だ。

前者は小さいとはいえ手術なのでICUでチョイチョイとはいかない。

オレは必ず手術室でやることにしている。


ICUだと広くて低いベッドの上で切るので自分の腰が痛くなる。

ショボい無影灯むえいとうで見えにくいし、電気メスもボロい奴しかない。

気管切開は比較的単純な手術だけど手違いで簡単に命にかかわる。

だから周到な準備をしておきべきだ。


その昔、術者が頚動脈を切ってしまったのを目の前で見た事がある。

危うく患者は死ぬところだった。


また気管切開チューブが皮下に迷入めいにゅうしてしまった事もある。

これはオレ自身がやってしまい、患者が死にそうになった。

しかも2例も!



「やるのはICUか手術室か、どっちで?」

「ICUです」

「なら穿刺だな。オレあんまり経験ないんだけどセルディンガー法か?」

「そんな感じですね。やり方なら園崎が良く知っていますよ」

「じゃあオレも説明書を読んでおくわ、穿刺キットに入っていたよな」


1例目は11時開始ということになった。



手術室での開頭を済ませて術衣じゅついを脱いだらちょうど11時頃。

院内PHSが鳴って、外回そとまわりナースが取った。


「ええ。ちょうど今、手をおろされたところです」

「は、オレの事?」

「ICUから気管切開の準備ができたって」

「すぐ行く、と言っといて」



ICUに到着した時にはすでに準備万端だった。

患者の頭側あたまがわには女性2人組。

気管支ファイバーを構えた集中治療医の鏡山かがみやま先生と冷泉れいぜい看護師。

そして患者の右側には術衣を着た園崎レジデントが待っていた。


オレもあわてて紙製の術衣を着せてもらう。

術衣ってのは1人で着ることができないのだ。



まずは手順の打ち合わせ。

頼みの綱の説明書はどっかに捨てられていた。

オレ以外の全員が手順を承知しているんだから当然かもしれない。


皮膚切開は気管軟骨の直上に横切りで3センチ。

専用穿刺針で気管を刺し、針だけ抜く。

気管に残した外筒がいとう経由でガイドワイヤーを気管内に誘導する。

今度はガイドワイヤーを残して外筒だけを抜く。

ガイドワイヤーに沿ってダイレーターで気管をひろげる。

さらに専用鉗子かんしに入れ換えて再び気管を拡げなくてはならない。

最後にガイドワイヤに沿って気管切開チューブを挿入して終了する。


そんな感じだ。

こうして書いてみると複雑に感じる。

が、いつもやっているセルディンガー法の応用にすぎない。

今回は園崎くんが術者、オレが助手だ。


4人で手順を確認して、いざ本番!


まず経口挿管されている気管チューブを少し抜浅ばっせんしてもらう。

ファイバーを通してモニターに気管分岐部が見えるので安心だ。


「気管を押してみてください。へこむのが見えるはずですから」


そう鏡山先生に言われて園崎くんが創部から気管を指で押してみる。

押し方が悪いのか場所が違っているのか、凹んだかどうか確認できない。


「もう穿刺せんししてしまおうぜ」

「分かりました」


そう言って、彼は気管を穿刺した。

何度やってもうまく入らない。

そもそも頭側あたまがわに向けて刺している上に先端孔せんたんこうの向きもデタラメだ。


「おいおい、足に向けて刺せよ。それに先端孔は下向きだろ。じゃないとガイドワイヤーがちゃんと入らないぞ」

「そうなんですか」


おいおい。

園崎くんは肝心のところが抜けている。


彼が力を入れて押すと、突如、モニターの画面に針が出現した。

穿刺針の先端がうまく気管内に入ったということだ。

針を抜いて、代わりにガイドワイヤーを挿入する。

うまく気管分岐部の方向に入っていく。

あとは専用鉗子で気管を拡げて気管切開チューブを挿入するだけだ。


拍子抜ひょうしぬけするくらい何事もなく一連の手技が終了した。

うまく行くときはこんなものだろう。


「ファイバーがあると1段階ずつ確認できるので安心感が違います」


そう言って鏡山先生をねぎらった。


「1本5万円のディスポなんですけど、その価値はありましたか?」

「ありました、ありました」


目に見えて彼女の機嫌が良くなった。


ディスポってのは使い捨てという意味だ。

だから「5万円のディスポ」と言われると、正直ビビる。


が、かつて患者を2人も死なせかけたオレの事だ。

「5万円くらい上等だぜ!」と言いたい。



あと、園崎くんにはちょっと説教をしておかないとな。


「気管を押すのは指じゃなくて細くて硬いものがよさそうだな」

「細くて硬いものですか?」

「ダイレーターなんかピッタリじゃないか」

「次からダイレーターを使ってみます」

「それと穿刺針せんししんの向きに気をつけろよ」

「はい」

「先生が頭向きに刺すのを見て仰天ぎょうてんしちまったぞ」

「すみません」


打ち合わせと振り返り。

面倒がらずに毎回やるべきだと思う。

そうすれば余計なトラブルは起こらない。


何事も凡事徹底ぼんじてっていってことだな。

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