第285話 異国に拉致されかけた男

自分自身が入院する前日の夜中まで手術をしていた男。

前回はそんな忙野ぼうの先生に登場してもらった。

実は名前がついていなかっただけで、本シリーズにもたびたび出演している。


今回は、そんな忙野ぼうの先生の若い時のエピソードだ。


ある金持ちの外国人一家が日本を旅行していた時のこと。

ホテルで突然、娘が倒れて当院に搬入された。

脳動静脈奇形の破裂による脳内出血だ。



治療を担当したのはスタッフの1人と、まだレジデントだった忙野ぼうの先生だ。

何しろ相手は外国人なので手術説明などのやり取りはすべて英語になる。

だからオレがもっぱら通訳をした。


患者はまだ17歳の女の子。

両親はこれ以上ないくらい心配していた。


治療自体は順調に進み、意識を取り戻した患者はリハビリの毎日だ。

オレも山積みの書類仕事があるため、いつも通訳をするわけにいかない。


自然に忙野ぼうの先生が直接両親や患者に話をすることになる。

毎日のように英語でのコミュニケーションを図っていたら上達するのは当然だ。



「ドクター・ボーノ。お前もなかなか英語が上手くなったじゃないか」


娘の回復もあって両親は御満悦ごまんえつだ。

とはいえ、大病をわずらったのだから心配の種は尽きない。

この際、忙野先生も一緒に連れて帰ったら安心だと思ったのだろう。


「どうだ、ドクター・ボーノ、娘を嫁に貰ってやってくれないか。脳外科を続けたいならウチの国でやったらいいじゃないか」


両親に気に入られた忙野先生は気持ちがぐらついた。

……かどうか、オレたち第三者には分からない。


が、オレの見るところ娘は美人だし、両親はスーパー・リッチマンだ。

自分をしたってくれる17歳の女の子を奥さんにするのも悪くないんじゃないか。


しかし、残念ながら忙野ぼうの先生には妻子があった。


「いやあ、私は既に結婚していまして。先日、子供が生まれたばかりなんですよ」

「なんだ、それは残念だ。独身だとばかり思っていた」


両親は心底落胆していた。



数週間が過ぎ、すっかり元気になった娘を連れて、両親は帰国した。

以来、忙野先生のところには母親と娘から別々にメールが来るようになったそうだ。


母親からは「ボーイフレンドが娘のもとを去ったのは大病をしたからなのでしょうか?」とある。

娘の方からは「帰国してから、思うところあって彼氏とは別れました」と意味深長な文言もんごんつづられていた。


忙野先生のところは順調に子供が増え、今では家を破壊する3人の男の子とそれを怒鳴りつける奥さんとのドタバタで毎日が過ぎていく。



「彼女、元気にしているのかなあ」

「きっと元気にしていると思いますよ」

「ちょっと残念だったなあ、あの子は」

「それは先生の心の声なんじゃないですか? 僕はそんな事、思っていませんからね」


今でも忙野先生とはたまにそんな話になる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る