第284話 忙しさ大爆発の男

事の発端ほったんは半年前にさかのぼる。

いつもの開頭手術だった。

副鼻腔ふくびくうが一部開いたが、有茎骨膜ゆうけいこつまくで閉鎖した。

だから特に問題はないはずだった。


ところがこの患者、つい1ヶ月前に別の病院で別の手術を行った。

その後、開頭部分が腫れてきたのだ。

半年前に手術した術者はもう異動してしまっている。

だから担当していたレジデントとオレで開頭部分を穿刺したり腰椎を穿刺したりして菌の同定につとめた。


それで検出されたのが緑膿菌りょくのうきん

普通は黄色おうしょくブドウ球菌が出るはずなので意外だった。

別の病院での手術後に何故か経口抗菌薬がずっと投与されていたから、それで誘導されてしまったのかもしれない。


入院で抗菌薬の点滴を続けていたが、開頭部の腫れはどんどん悪化していく。

もう再手術して骨弁こつべんを除去するしかない。


というのも、先の手術の閉頭時へいとうじに戻した骨弁には血流がない。

だから人体にとって、ある意味では異物ともいえる。

血流のない異物には白血球も届きにくいし抗菌薬も届かない。

だから一旦、感染してしまうと細菌にやられ放題になる。

治療法は1つ。

血流のない異物を徹底的に除去してしまうことだ。


という決意で手術に臨んだ。



頭皮を切ったときからうみだらけだった。

牛乳というかヨーグルトというか。

そんな感じのドロッとした液体だ。


注射器シリンジを持ってきて」

「10ccでいいですか?」

「何でもいいから」


レジデントが膿の一部を吸引して培養に提出する。


抗菌薬の選択は後で考えるとして、オレたちはやるべき事をやるだけだ。

といって、そもそも何処どこから手をつけていいのかが良く分からない。

あまりにも強大な敵を目の前にして絶望感に襲われる。


「いいか、この人はな。普段はベンツに乗ってゴルフ三昧ざんまいなんだ!」

「それと手術と何の関係があるのでしょうか?」

「だから、オレたち庶民が頑張って治して、またゴルフに行ってもらうぞー!」

「おおーっ!!」


もう自らを鼓舞こぶする理由なんか何でも良かった。



幸い、脳を包む硬膜には破綻はたんがない。

また副鼻腔を覆った骨膜も問題はないようだ。


後はできるだけ膿を取り除くとともに骨弁を外さなくてはならない。

が、骨弁をとめているいくつかのネジの溝がもう潰れてしまっている。

ドライバーを使っても回らない。


こうなったら力業ちからわざ

ペンチではさみ強引に回してネジを引っこ抜く。


ようやく骨弁を取り除くことができた。


「この骨は保存しておきますか?」


スクラブナースに尋ねられる。


「感染した骨弁なんか捨てちまえ!」


レジデントがそう答えるが、オレはいさめた。


「おいおい。この骨弁が身をていして感染から脳を守ってくれていたんだ。そんな事を言われたら泣くぞ、骨弁が」

「あっ、そうかもしれませんね。失礼しました」

「それにさ、さっきから膿、膿と汚いものみたいに言ってるけど、これは細菌と戦った白血球の死骸じゃないのか? あまりざまに言うなよ」

「確かにその通りです」


骨弁にも膿にも魂が宿やどっていると感じる日本人ならではの会話か。


バイポーラという電気メスでひたすら凝固止血し、生理食塩水で散々洗った結果、術野は見違えるようにきれいになった。

たとえて言えば、ゴミ屋敷を片付けて掃除し、モデルルームにしたみたいなもんだ。


ただ、細菌の進入経路が分からない。

怪しいところには全て有茎の筋肉を縫着ほうちゃくする。


並列へいれつでやっていた手術を終えた連中が次々に参加し始めた。


当初はレジデントと2人で淋しくやっていた手術が急ににぎやかになる。


「もう帽状腱膜ガレアがズタズタで糸をかけられんな。真皮まで一緒に縫ってしまえ!」


「第1結紮けっさつは順目で結べ。じゃないと締まらないぞ!」


いつも通り、レジデント達は厳しく指導される。

どんな手術でもいつかは終わる、終わらない手術はない。



閉創したばかりの頭皮にガーゼをあてるレジデントを横目に、疲労困憊ひろうこんぱいのオレは腰をおろした。


聞くともなしにナース達の会話が耳に入ってくる。


「次のオぺの入室は23時からです」


このあと、別の手術があるのか!


「一体、何の手術があるの、このクソ夜中に」

「脳室ドレナージです」

「どわっ、それ脳外科じゃん! 一体何例目になるわけ?」

「先生の手術が今日の4例目なので、次が5例目になりますね」

「よくやるなあ、あの人らも。……っていうか僕もそのうちの1人なんだけど。術者は誰?」

忙野ぼうの先生です」

「えっ? 彼、明日入院して明後日が手術なんじゃないの。人様ひとさまの手術をしている場合かよ」


そういや、オレは忙野ぼうの先生に宅直の交代を何日か頼まれていたのだった。


「予定より早く退院することができたら、すぐに復帰しますんで」


忙野ぼうの先生にはそんな事を言われた気がする。


頼むから自分の療養に専念してくれ!

もし彼の入院中に交通事故にった人がいたら、それは単に運が悪かったって事だ。

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