第282話 いつもニコニコする女

その患者は中年女性。

他院でくも膜下出血まくかしゅっけつの手術をされたが、何故かオレの外来に通院している。

もっぱらの問題は、「怒り出すと止まらない」ということだ。


くも膜下出血の後遺症による高次脳機能障害なのだろう。


今回の診察の際にも女性の上司からのメールをプリントして持ってきていた。

そこにあったのは「鬼怒川きぬがわさん。今日も職場の人たちに怒鳴っていましたが、いくらなんでも言葉が過ぎますよ。もう少し言動に気をつけるよう努力して下さい」という文言もんごんだ。


オレの前ではちょっと鈍いおばちゃんだけど、職場では困った存在になっているに違いない。

なんせ怒り出したら止まらない上に、どこに地雷があるか自分でも分からないらしい。


「やっぱり病気のせいでしょうか?」


そう尋ねられてオレは答えた。


「たぶん病気が8割、本来の性格が2割くらいでしょうね」


全部が全部、病気のせいだというのもちょっと違うだろう。


「職場でも家庭でも、とにかく努力して怒鳴ったりしないようにしましょう」


そうアドバイスしたが、本人は他人事みたいな表情をしている。


「もうね、そのマスクに『いつもニコニコ』って書いておいたらいいんじゃないですか?」


オレはそういって、診察室にあった新品のマスクの1枚に赤マジックで「いつもニコニコ」と書いた。


「いいですか鬼怒川きぬがわさん。職場ではこのマスクをつけておきましょう」


そう言いながらオレは「いつもニコニコ」と書いたマスクを手渡した。


「もし同僚に罵声ばせいを浴びせてしまったら指摘してもらってください。『鬼怒川さん、マスクに何て書いてあるんですか?』って」


われながらいい考えだ。

「いつもニコニコ」と書いたマスクをつけた人に怒鳴られても、単なるギャグにしかならない。

怒鳴られた同僚も笑いをこらえるのに精一杯だろう。


鬼怒川さんも自分でマスクを取ってみれば、「あっ『いつもニコニコ』って書いてあったわ!」と気づくはず。

そして「いつもニコニコしていなくっちゃ」と思う、その心掛けが大切だ。


鬼怒川さんはオレの作った「いつもニコニコ」マスクを喜んで持って帰った。

果たして職場で効果を発揮するのだろうか?

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