第242話 脳外科医になって見えてきた男

「脳外科医になって見えてきたこと」 草思社

著者:フランク・ヴァートシック・ジュニア

訳者:松本剛史


 タイトルはぼんやりしているが中身は凄い!

 アメリカの脳神経外科レジデントの成長物語だ。


 ちなみに原題は "When the Air Hits Your Brain: Tales from Neurosurgery" となっている。

 訳すと、「空気があなたの脳に触れるとき:脳神経外科からの物語」といった感じか。

 おそらく「脳や脳神経は空気に触れるだけでも障害が出ることがある」という業界神話をそのまま言葉にしたものではないかと思われる。


 さて、この自伝的小説の内容だ。

 著者がインターンを終えてレジデントとして脳神経外科に入るところから物語は始まる。

 そこから後は脳神経外科医の誰もが経験する泣き笑いが語られる。


 細部が実にリアルだ。


 著者の初出勤日にチーフレジデントのゲーリーが著者に「ゲーリーのルール」というのを伝授する。

 ルールその1が原題にもなっている「脳がいったん空気に触れると、人はもうそのままじゃいられない」というものだ。

 実際には空気に触れたからといって何かが起こるわけではない。

 時には「俺は何も悪い事してないぞ。単に脳が空気に触れただけじゃないか!」と言いたくなるような事が起こるが、それはごく稀だ。


 印象に残るエピソードがいくつかある。


 オンディーヌの呪いをかけられてしまって、治る見込みのない患者を安楽死させる場面。

 この病気は眠ると呼吸が止まってしまうので眠ることができない、という苦痛を患者にもたらす。

 小説の中では脳外科手術後の男性がこの合併症にかかってしまった。

 40代の彼は精神のバランスを失って暴れ、そんな状態が何ヶ月も続いた。

 年老いた母親が「もう呼吸器を止めよう」と告げたとき、患者は勢いよくうなずいた。

 しかし、誰が呼吸器を止めるのか、というのが問題になる。

 結局、部屋から全員を出した上でドアを閉め、窓にカーテンをひいた上で父親が行ったようだ。

「ようだ」というのは、誰もその場面を見ていないからだ。

 著者に患者死亡の連絡があったのは数時間後だ。

 患者のうなずきもカーテンを閉める行為も、オレには途方もなくリアルに感じた。


 また「天才外科医」であるチーフレジデント、ゲーリーの話も面白い。

 アルバイト先で胸部外傷の患者が搬入されたとき、彼は治療を諦める。

 天才外科医なら治療しろよ、と誰もが思うかもしれない。

 だけど、それは漫画の中の話だ。

 自分の限界を知っていて、瞬時に「出来ない」と判断するのが本当の天才外科医だ。

 天才とは確信だとオレは思う。


 ゲーリーの言葉で面白いものがある。


 自らルールその2と名付けている。

「小さな手術ってのは、自分以外のだれかがやる手術だけだ」というものだ。

 なるほどその通り。

「もし自分がやれば、そいつはみんな大手術になる」

 オレは毎日この言葉を噛みしめながら仕事をしている。


 最後の方にこんなエピソードがあった。


 著者は上級医とともに認知症患者の巨大な脳腫瘍の摘出に挑む。

 大量出血の中で何とか初老女性の腫瘍を摘出することができた。

 が、残された左大脳半球はぺったんこだ。

 長年、腫瘍によって圧迫されてきた脳がはたして復活するのか、と誰でも思うに違いない。

 しかし、奇跡的に患者は回復し、1年に1回、著者のオフィスを訪れて愛車の自慢話をする。


 著者は言う。


 自分のキャリアの中で、まさしく画期的な症例だった。

 生きているうちにもう2度とこんなことが起こらなくても自分は満足して墓に入るだろう、と。


 月の上を歩くこともノーベル賞をもらうこともホワイトハウスに住むこともないだろうが、このような特権を味わえるなら……全世界とだって交換するつもりはない、とまで。


 オレもそう思う。


 困難な手術をうまく終えたときの達成感は何物にもかえがたい。

 ノーベル賞やホワイトハウスに匹敵するという著者の意見はよく理解できる。


 最後に1つ2つ。


 2人の医師が向かい合って手術している絵が表紙になっている。

 アマゾンのレビューでは「表紙写真のように術者が向き合って手術することは脳外科ではほとんどない」とあるが、それには賛成しかねる。

 米国の脳神経外科症例の半数近くを占める脊椎手術は術者と助手が向かい合って行う。

 日本では整形外科医が脊椎手術を行うことが多いのでそのようなレビューになったのかもしれない。


 もう1つ。


 医学用語の訳がズレている部分が10数ヵ所ある。

 決して間違っているわけではないのだが、少し違和感を持ってしまう。


「頭蓋内動脈瘤のクリップ止めは」→「脳動脈瘤のクリッピングは」

「顕微鏡外科は」→「顕微鏡手術は」

「腹部の器官は」→「腹部の臓器は」

「色素検査が必要であること」→「造影剤検査が必要であること」


 訳全体は素晴らしいものなので、版を重ねることがあったら、これら些細な部分を見直して完成度を上げて欲しいと思う。


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