第186話 挨拶に行くのを忘れていた男

「しまった、忘れてた!」


妻とオレは同時に声をあげた。

祝電のたばの中に勤務先の院長の名前を見つけたからだ。


あれから何十年もつが、今でも忘れることができない。


当時、オレは勤めていた病院で職場結婚することになった。

ところが、肝心の院長に挨拶にいくのをすっかり忘れていた。

その事に気づいたのは披露宴の日に祝電を受け取った時だ。


もちろん新婚旅行から帰ってきて、真っ先に報告に行った。

以来、当時の院長には頭があがらない。


入院している親友の事が心配でならない、とか。

親族が得体の知れない病気になった、とか。

何か連絡をもらったときには最優先で対応している。



さて、コロナ禍の昨今。

研修医教育のための協力医療機関にも大きな影響が出ている。

様々な理由で研修医の受け入れができない、という所が出てきた。


そういう時は総合診療科で受け入れる、ということが慣習になっている。

今回も教育研修部が間に入って、総合診療科や関係医療機関と調整をした。

が、当該とうがい研修医への連絡が忘れられていたのだ。



「おっ、総合診療科の預かりになったそうだな」


突然現れた研修医に上級医が確認する。


「僕には全然連絡がなくて……昨日知りました」

「よくある事だから気にするな」

「はい」


まったくその通りだ。

だからオレもちょっと口をはさんでやった。


「そういう時に『俺は聞いてない!』と暴れる人がいるけどね」

「ええ」

「そういう事は言わない方がいいよ」

「言ってません」


なかなか良い心掛けだ。


「30年経って先生が無茶苦茶えらくなっても、やっぱり言わない方がいいよ」

「人生の教えですね」


「俺は聞いてないぞ」という言葉で相手をおどそうとする人も世の中にはいる。

が、それはオレのスタイルではない。

水臭みずくさいじゃないか、ちょっと教えてくれたっていいのに!」くらいにしておく。


忘れられていても祝電を送る、という方が渋いと思うからだ。

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