第169話 姑のように口喧しい男

年を取ってくるとダブルヘッダーの手術が体力的にきつくなる。


今日やったのは2例とも基本的な脳室腹腔短絡術VPシャントだ。

正味2時間かからない手術なので2例つづけてやるのは何でもない。

……はずだったが、そうでもなかった。


1例目は人間の頭数あたまかずが足りなかった。


この手術は頭側あたまがわ2人、腹側はらがわ2人で手分けしてやると最も効率的だ。

でも、手術室にいた脳外科医は術者とオレを含めても3人だけ。


仕方ないので見学に来ていた医学生にも参加してもらう。

手洗いをして助手をさせたのだ。


案外、医学生は自分が戦力になったことに喜んでいた。

多くの医学生がボーッと突っ立っていて邪魔者扱いされるだけだからだ。


糸切りや鈎引こうひきなどの単純作業だけでもやってくれると有難い。

なんせ人間は誰でも手が2本しかないからな。


ついでなので勧誘しておくか。


「見学の時に手術に参加した者は脳外科に入るというルールがあるんだ」

「本当ですか?」

「キミはなかなか見込みがあるよ。脳外科に来たらどうかな」

「ぜひ入れてください!」


というわけで、1例目の手術は医学生まで引っ張り出して1時間半ほどで乗り切った。


それでも疲労困憊ひろうこんぱいだ。

2例目の待機中に、我知われしらず椅子の上で寝てしまった。


もっとも、脳室腹腔短絡術VPシャントのような基本的な手術でも学ぶ事は沢山ある。


今回の工夫は腹直筋鞘ふくちょくきんしょうに皮膚ペンで線を引いたことだ。

皮膚ペンはもともと皮膚切開のマーキングのためにある紫色のものだ。


しかし筋鞘きんしょうとか硬膜こうまくなどを切る前にこれで切開予定線を入れておくとやり易い。

というのも、閉創へいそうの時まで紫色が残っているので、後で縫い合わせるときに迷うことがないからだ。



そこで2例目は意図的に腹直筋鞘ふくちょくきんしょうに線を引いてみた。

というより、レジデントにマーキングさせた。


「おいおい、正中に線を入れないとダメだろう」

「えっ、正中にいたつもりですけど?」

「いや、もう5ミリほど左寄りじゃないのか、正中は」

「そうですかねえ」


危なくオレの思っていたのと違うところをレジデントが切るところだった。

難しく言えば「メンタルモデルの共有」ってやつだが、それができていなかったわけだ。


だから何処どこが正中かでオレとレジデントの間でひとしきり議論になった。

といっても20秒ほどのことだけど。


腹直筋鞘ふくちょくきんしょうってのは単なる白い膜なんで、ここだけ見ても正中がわかりにくいのは当然だ」

「何かB級テクニックみたいな裏ワザがあるんですか?」

「あるね」

「ぜひ教えてください」


オレは裏ワザが大好きだ。

だからこういう機会にレジデントに披露する。


腹直筋鞘ふくちょくきんしょうを両横に剥離はくりすると、横に筋肉が見えるだろう」

「そうですね」

「だから筋鞘きんしょうと筋肉の境界線を左右とも出したら、その真ん中になる正中は簡単に分かるわけよ。やっぱり先生が最初にいた線はちょっとズレていたな」

「ホントだ。いつもながら先生のサル知恵ぢえ……、いやテクニックは素晴らしいですね」

「心が曲がっていたら正中線もズレてしまうからな」

「そこまで言われますか!」


普段のオレはいい加減な人間だけど、手術の時は口喧くちやかましい。

できるだけ取りこぼしがないようにするためには姑根性しゅうとめこんじょうが大切ってことだ。


それはさておき、切る前に皮膚ペンで腹直筋鞘ふくちょくきんしょうに線を入れておくと、やはり閉創へいそうの時はいやすかった。


どんな基本的な手術でも工夫の余地はあるもんだ。

それが面白くて、疲労困憊しながらも続けている。

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