第142話 ヤクザを怒らせてしまった男

 その昔、アルバイトで個人病院の当直をしていた時のこと。

 事務当直からオレに電話がかかってきた。


「時間外なんですが、1人診察してほしいんです」


 ずいぶん恐縮した口調だった。


「相手がヤクザというのに気づかなくて、偉そうに言ってしまったんです」


 おいおい。


「それはホントか?」

「ええ、この辺にはヤクザが多いんですよ」


 多いのを知っていたらもっと注意するのが普通だろ。

 なんでオレが事務当直の尻ぬぐいをしなくちゃならんわけ?


 ということで診察室に向かう。


 待合室に10人ほど座っていたが一目見てすぐに分かった。

 怖そうな兄ちゃんと、もっと怖そうなおっちゃんの組み合わせ。


 とはいえ、彼らも用事があって病院に来ているわけだ。

 とにかく診察室に入ってもらった。


 なんだかんだと要領を得ない話を聞かされる。

 ついに意を決したように怖そうなおっちゃんがオレに尋ねた。


「ワイ、もしかしてエイズになっとるんとちゃうやろか?」

「心配なら調べておきましょうか」

「ああ」

「じゃあ、採血しますので結果は後日聞きに来てください」


 1時間ほど待ったら採血結果が出るということは言わなかった。

 この人たちに目の前から消えてもらうというのが最優先だ。



 オレたち医師は患者のニーズを的確にとらえなくてはならない。

 このヤクザはHIVに感染しているか否かが心配だったのだ。

 そのニーズにこたえて検査を手配したら感謝して帰ってくれた。



「どうでした?」


 診察室から戻る途中、待ち構えていた事務当直がオレに尋ねる。

 ここはちょっとビビらせてやれ。


「むっちゃくちゃ怒ってたよ」

「ひええ」

「『あいつの名前はなんや!』って訊かれたから、『木村さん……じゃなかったですかね』と適当に答えたけど、まさか本当に木村さんだったりしないよね」

「違います、違います!」


 というわけでヤクザと事務当直の双方から感謝された。


 それにしても無用なトラブルを作るのはやめて欲しいもんだ。

 どんな患者にも親切にしておけば間違いはない。

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