第121話 自己嫌悪に陥った男

後で振り返ってみれば、いつものドタバタした1日だった。



その日、オレは午前7時に病院に出勤した。

他の当番とともに深夜の入院患者を各診療科に割り付ける。


その中の1人に尿路感染からの菌血症疑いで当直部に入院となった患者がいた。

すでに泌尿器科から、尿路感染症ではない、というお墨付きをいただいている。

端的に言えば「ウチじゃねーぞ」というメッセージだ。


ということは、感染源不明の菌血症ということになる。

なにしろ血液培養4本中3本からグラム陰性桿菌いんせいかんきんが検出されたのだ。

結構、気合いを入れて治療しなくてはならない。


この患者、なぜか別の疾患で膠原病内科に通院中だ。

これ幸いと膠原病内科の全員に「貴科かかりつけの患者さまですが、御担当よろしくお願いします」という割り付けのメールを送っておいた。

他の割り付け当番たちも異論はなさそうだ。



部屋に戻った途端、総合診療科そうしんの非常勤医師から来ているメールが目に入った。


「昨日から鼻汁と37.7度の発熱があります。本日の外来どうしたらいいのでしょうか?」


確か、彼女の娘さんも同じような症状だったはず。

コロナでないにしても何らかの感染症には違いない。

この状態で出勤してもらうわけにはいかない。


「休んでください。再診予約はこちらで何とか対応します」


ほかに返事のしようがない。

オレは脳外科のほかに総合診療科にもかかわっている。


だからオレが代診すればいいのかもしれないが、脳外科外来の午前中は20人の再診予約で埋まっている。

うち3人は顔面痙攣がんめんけいれんに対するボトックス注射だ。

それなりに時間がかかる。


内科外来に出向いて受付ナースと善後策を話し合った。

結局、オレを含む総診関係者何人かで手分けして対応するよう手配する。

もちろん、初診もコンサルも今日は締め切った。


ただでさえ1時間待ちでブーブー言われる脳外科外来が、総診の患者まで抱えてしまったら2時間待ち、もしかしたら3時間待ちになってしまう。


とはいえ、急病はお互い様だ。

文句は口にするまい。



内科外来から戻るときに廊下で脳外科レジデントに出くわした。


「すみません。さっき、先生方が割り付けをしている間に1人当直部に入院させたのですけど」


そういうことは早く言えよ!

追加の割り付けかい。

そもそも、ここで偶然出くわさなかったら、その患者は1日中、宙ぶらりんか?


心の中でうんざりしながら急性薬物中毒の患者を救急に割り付ける。

とはいえ、自殺目的での大量服薬なのだから、本人は放っておいて欲しいのかもしれない。

かといって、本当に放っておいたら大問題になる。



そんなこんなで脳外科外来の開始を20分早くした。

1人50秒で片付けるつもりで事にのぞまなくてはならない。


でも、そわそわするオレの態度が患者に見抜かれていたみたいだ。

いつもより長話する人が多い。


何故か尻のできものとか、足の浮腫むくみまで相談される。

脳外科外来で尻やら足やら出してくるということは、そこに脳が入っているのでしょうか?


こんなギャグを言っても皆がキョトンとするだけで誰も笑ってくれない。

だから、真面目に診察するふりをしながら、それとなく皮膚科受診や内科受診を勧める。

もちろん終始にこやかな表情を保ちつつ。



疲労困憊ひろうこんぱいで外来が終わったのが午後1時半。

総合診療科の予約患者も何とか皆で手分けしてさばくことができた。


午後1時半から治験の説明会。

その後、遅い昼食を済ませてから、午後3時にオンラインでのアポがあった。

学習教材の売り込みだ。



オレの勉強不足がバレたのかな、と思いつつアポを受けたのだが、実際は施設導入の営業だった。

オレは窓口じゃない、売り込む先は教育研修部長だ。

そう言ったら、担当者はきまり悪そうに画面から消えた。


「まず最初に施設導入の営業だ、と本題を言ってから話を始めた方がいいと思いますよ」


担当者が消える直前に、そうアドバイスしておいた。

でなかったら、み合わない話が10分も20分も続く。

お互いに時間の無駄だ。



一息つく間もなく、診療看護師の論文作成の指導を行う。

診療看護師によるタスクシフトがどこまで可能なのか、その安全性、効率性、そして組織体制構築の実際など、自分たちのデータを用いて順に論文化している。

今回の論文が5つ目だ、よく頑張っていると言っていい。


が、彼の場合、どうしても感情が入ってしまう。


論文なんてものは数学の証明問題みたいなものだ。

著者の感情が入る余地はどこにもない。

イデオロギー論争など不毛なだけだ。


積み上げたデータを解析し、根拠に基づいて論文を書く。

査読者レビューワーとのやり取りで何度も論文を修正し、アクセプトされたら出版だ。

単にそれだけのことだが、ひたすら正確を期すための推敲が続く。


自説を批判する者がいれば黙って自らの論文を見せればいい。

医学界におけるるがぬヒエラルキーは査読論文、学会発表、メディアの順だ。


もっとも、声の大きいのは逆の順になるから一般人はメディアが1番偉いと錯覚しがちだけど。

業界の中でもこのヒエラルキーを知らない人間がいる。

論文を書いている時に「その根拠は?」と問われて「テレビで言ってました」と答えた奴がいて、指導医から呆れられていた。


それはそれとして、彼の論文草稿の中からルサンチマンをぎ落さなくてはならない。

さらにポジティブな言葉だけで綺麗にロジックがつながり、主張したいことがストレートに伝わるように何度も赤ペンを入れた。


午後5時前に論文指導を終えたらもうヘロヘロだ。



その頃になって膠原病内科から連絡が入る。

なぜ尿路感染症が膠原病内科に割り付けられたんだ、というお叱りの電話。


オレは紳士的に対応した。


尿の塗抹検査スメアでは細菌は検出されていません。

膠原病内科に通院中です。

そもそも割り付けの連絡メールを送ったのが午前7時台ですが、まさか日勤帯にっきんたいが終わろうかという時刻まで患者さまを放置していたわけではないですよね。


他に相応ふさわしい診療科があるとお考えなら直接交渉していただくことになっています、と最後に念を押した。


じゃあ、この電話で総合診療科そうしんに交渉させてくれ、と言われないうちに切った。

オレが総診担当者も兼ねていることを相手が思い出してしまったら大変だ。

その勢いで院内PHSの電源も切る。



その時、ふと気がついた。

もう金曜日の夕方じゃないか!

明日は休みだ。

何という開放感!!


もういつ帰ってもいいんだ、と思いながら入院患者のカルテを順次チェックした。

いいオッサンになっても知らない病気、知らない薬は山ほどある。

次々と勉強しては新たな知識を得る。



いつの間にか時間が経っていた。

ふとスマホのラインに着信メッセージが入っているのに気づいた。


「打ち合わせに来ることはできますか?」


ダーッ、忘れていた!


やっちまったよ。

妙に勉強がはかどる気がしていた。


もう会議室での打ち合わせは1時間も前に終わっている。

金曜日の夕方の開放感が、一気に自己嫌悪に変わってしまう。

どんな顔をして週明けに出勤したらいいのだろうか?


これこそ本当のトホホホホってもんだ。


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