第122話 固まってしまった男
「
「おっ、何かな?」
「英会話学校に入学したそうです」
「そうか、ついに始めたか」
崎元くんは脳外科レジデントだ。
ウチの病院で初期研修2年と脳外科3年の修行を積んだ後に他院に異動となった。
思い返せば5年前のある日が事の始まりだった。
医大を卒業したばかりの崎元くんはヤル気満々で初期研修に
彼を
というのも、その頃から初期研修医にも外来診療が課せられるようになったからだ。
レジデントになってからいきなり外来診療を開始するより初期研修医の間に上級医のもとで経験しておくべし、というのがその理由になる。
で、
彼が脳外科志望ということは知っていたので、熱血指導をしてやろうという心積もりだった。
はりきって総診外来にやって来た彼は予診票をみて固まってしまった。
すべて英語で書かれていたからだろう。
患者の名前はキャロル・ワン、中国系カナダ人だ。
旅行で日本に来たばかりだが、顔の右半分に湿疹ができたので診て欲しい、というのが彼女の主訴だった。
顔の右半分に湿疹、なんじゃそれ?
オレの正直な感想だ。
とはいえ、指導する立場としてそういう事は表情に出さない。
しかし崎元くんは固まったままだ。
1分、2分。
まったく動かない。
「おい、生きてるか?」
そう、声をかけたらようやく動き始めた。
「これ、一体どうしたらいいんですか?」
「先生を苦しめているのは英語か、それとも見当のつかない主訴か?」
「両方です」
「二重苦だな、とにかく診察室に入ってもらおう」
診察室にワンさん一家が入ってきて口々に喋り出した。
言葉の壁に苦労しながらも事の
カナダから香港に来て中国在住の親戚と会った。
昨夜、日本についたが、今朝起きたら顔の右半分に湿疹ができていた。
何でこんなことになったのか、どうすればいいのか?
そんなところだ。
口先で適当に誤魔化そうと思ったら、同行の弟がトロント大学の医学生だそうで、そうは行かなくなった。
「アナタノ鑑別診断ハ何デスカ?」
日本語の表示を出したスマホを持って弟がズンズン迫ってくる。
クソッ、世の中が便利になりすぎた。
これが英語や中国語ならとぼけることもできるのだけど、よりにもよって日本語とは!
その場をどうやって切り抜けたのか全く覚えていない。
崎元くんに至っては、最初から最後まで固まったままだった。
後で考えてみれば、こういう事だったのかと思う。
キャロルさんは香港の百貨店で化粧品を試してみたのだそうだ。
顔の右半分だけに塗ってみたとのこと。
それによる接触性皮膚炎が日本到着後に出たのではないか。
それなら話の
とはいえ、崎元くんにとっては鑑別診断どころではない。
英語でのコミュニケーションが絶望的にできなかったのだ。
「どうやら先生は英語の勉強もした方が良さそうだな」
「そうですね」
「英会話学校とかオンライン英会話とか、考えてみたらどうかな?」
「分かりました。検討します」
「今日すぐに入会します、くらいの返事が欲しいな」
「すぐに入会……ですか。ちょっと考えさせてください」
以来、彼の顔を見るとオレは尋ねていた。
英語やってるか、と。
つい先日、別の病院に異動した彼は多少の時間の余裕ができたみたいだ。
早速、英会話学校に入ったとのこと。
何事もまずは始めることが大切だ。
そして一旦始めたら続けなくてはならない。
ん?
オレも長いことオンライン英会話を休会している。
秋の学会では英語セッションのディスカッサントがあたっていた。
人の事より自分の事を心配しないといけないな。
そろそろ再開するか。
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