第118話 小姑に叱責される男

1例目の手術の麻酔覚醒の間、数名の脳外科レジデント間でロック論争があった。

ロック論争というのは糸の結び方に関するものである。


手術の際、専門分野にかかわらず糸をどう結ぶかというのが大切だ。

基本的には2回の結紮けっさつでキレイにまり、ゆるまないということが求められる。


しかし、第1結紮のあと、第2結紮を始めるときに緩むことが多い。

そうすると上級医に言われる。

「ロックをかけろ」と。


ロックをかけておけば、第1結紮から第2結紮にうつるときに緩まない。


しかし、この「ロックをかける」をうまく言葉で説明するのは案外難しい。

結び目をどこにもってきて、どちらの糸をどちらの手で引けば緩まないのか。

それがロック論争だ。


オレもレジデントの論争に加わって、自分なりの理論を披露した。

が、実物の皮膚を前にしていないので、文字通り机上の空論だ。

近いうちにオレの理論を実際の手術で見せる必要がある。



そう思っていたら、幸い、2例目に慢性硬膜下血種の手術が入った。


オレとレジデントの水尾くんの2人でやる。

水尾くんは朝のロック論争には加わっていなかった。

しかし、担当医なので皆の前で結紮を披露することになる。


彼の結紮は左手の片手結び+右手の片手結びだ。

その場合、第1結紮で左手と右手を交差させて締めておいてから元のポジションに戻し、左手の糸を引っ張りながら右手で片手結びをするのが1番合理的だ。


この方法だと左右の手が1度交差するので、あまり美しくは見えないが、緩まずに締めることは可能になる。


ここで彼に「基本は両手結びだぞ」とか「人差ひとさし指で結び目を送れ」とかいうと破綻はたんする。

少なくとも1週間は練習しないとできないことを今の彼にいるのはアドバイスと呼べない。

あくまでも現在の彼の手持ちの技術の範囲内でどうやるかが重要なのだ。



なぜか大勢のギャラリーが集まってきた。

左右からしゅうとめ小姑こじゅうとの叱責にさらされる。

水尾くんは汗だくだ。


「彼にそんな難しいことを言ってもダメだぞ」


オレは水尾くんの性格を考えて彼を擁護ようごした。


「水尾先生は1段飛ばしのできない人なんで、1回に1段階しか進歩しないよ」


ちょっと揶揄やゆも混ざっていたかな。


「2段階進歩させようとすると、失敗して元の木阿弥もくあみになっちまうから」


というわけで、大勢のギャラリーの中で、水尾くんは何とかやりとげた。

左手の片手結び+右手の片手結びという唯一の技術を以て。



手術の後で彼はオレに言った。


「今日の手術は得るところが多かったです」


自分の身のたけは良く知っているようだ。

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