第74話 ボクシングをやめた男

 病院にやってくる製薬会社などのセールスマン。

 以前はプロパー、現在はMRと呼ばれる。

 ひょんなことからそんなMRの1人が元プロボクサーだと知った。


「プロライセンスだけ取ってすぐにやめる人も多いらしいね」


 彼は若いし鼻もつぶれてないから、プロボクサーとしてのキャリアはないのだろうと思っていた。


「いや、プロとしてやっていたんですよ」

「どの辺まで行ったわけ?」


 返ってきた答えを聞いておれは驚いた。


「国際ランカーですね」

「どわあっ。それ、無茶苦茶すごいじゃん!」



 彼から聞くボクシング界の話というのが面白い。

 特に亀田家と内藤大助との経緯いきさつはオレも興味があった。


「亀田興毅くんは、実際は真面目で礼儀正しい人ですよ。ボクシングもすごく綺麗でオーソドックスなタイプですね」


 あの暴言や態度は単にメディア向けに作ったキャラだったのか。


「内藤さんはいい人だけど、ボクシングの方は変則的というか。どっからパンチが飛んでくるか分からないんですよ」


 実際にこぶしまじえたことがあるのかもしれない。



 そんな彼がなぜボクシングをやめたのか?

 彼の話は脳外科医としては非常に納得のいくものだった。


「ずっとボクシングをやっていると、だんだん脳がこわれていく自覚がありましてね」

「たとえばどんなこと?」

「電話でしゃべっていても、相手に『呂律ろれつが回ってないぞ』って指摘されるんですよ」

「それ、あるかもなあ」


 派手なダウンでなくても、軽いパンチを頭部に受けるだけで脳にはダメージが残る。

 それが蓄積すると呂律が回らないくらいのことが起こってもおかしくない。


「それに、ボクサーって酒に酔いやすい気がするんです」

「ホントに?」

「ええ。ボクサー仲間の宴会って、参加していたら怖いですよ。皆、尋常じゃなく酔っ払いますから」


 そういう話は初めて耳にした。

 でも、パンチドランカーという言葉を考えると、妙に納得できる話だ。


「僕もそうなってしまったら終わりだと思って、ボクサーを諦めたんですよ」

「それは賢明な選択だったかもしれないな」



 脳外科医の目で見れば、ボクシングは最も危険な格闘技だと言っていい。

 以前にも述べたが死亡事故もたびたび起こっている。

 だから、ボクシングに反対の立場を表明する脳外科医は少なくない。


 しかし、精緻せいちな理論に裏付けられた美しいスポーツでもある。

 オレたちが追求している西洋医学に通じるといってもいい。

 だからオレ自身はボクシングに反対しない。

 やるかやらないかは、あくまでも個人の選択だ。


 かの元プロボクサーのMR氏。

 今はもう滑舌かつぜつの問題はなさそうだ。

 一般に脳に受けた外傷性のダメージは回復しないものとされている。

が、実際には長い間かかって徐々に修復されるのかもしれない。



 脳の働きは、オレたち医師にもまだまだ神秘の部分だらけだ。

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