第37話 ひたすら卵の殻を削る男

 救命センターに搬入された患者は重症頭部外傷。


 両側りょうそく視神経管ししんけいかんの骨折があり瞳孔が開いている。

 昏睡状態なので確認できないが、おそらくは失明の危機に直面している。

 一か八か、一側いっそくの視神経管を開放すればそちら側の視力を取り戻すことができるかもしれない。


 ということで、その役目がオレに回ってきた。

 しかし、オレにはほとんど視神経管開放の経験がない。

 ハイスピードドリルで前床突起ぜんしょうとっきを削ることになるが、すぐ横に視神経や内頚動脈などの重要構造物が存在する。

 もし手が滑ったら後遺症どころか命にかかわる。



 直ちに手術が準備され、レジデントとオレで開頭を行った。

 シルビウス裂を分け前床突起を露出する。

 前頭蓋底ぜんずがいていの硬膜を切って翻転ほんてんした。


 いよいよハイスピードドリルで削開さっかいを開始する。

 とはいえ、こんな怖ろしい手術操作もそうそうあるものではない。


 ふと生卵なまたまごで練習した日々を思い出した。

 ハイスピードドリルで殻だけ削って卵殻膜らんかくまくを露出する。

 誰もが知っている半透明の薄皮だ。

 もちろん失敗して膜を破ったら白身しろみが噴き出す。


 だが、今やっている手術で失敗したら吹き出すのは神経組織か動脈血だ。

 そのプレッシャーは練習とは比較にならない。


 コツは全体を薄く削ること。

 頭蓋骨は弾力があり、削っていくと最後にはペラペラの軟らかい紙のようになる。

 そこまで行けばこっちのものだ。



 恐怖の削開の後にようやく視神経鞘ししんけいしょうを露出することができた。

 後はこれを視神経に沿って拡大していく。


 視神経が圧迫されている部分については何とか除圧できた。

 だから最低限必要なことはクリアできている。


 しかし、できれば視神経全体に渡って除圧じょあつしたい。

 それでこそ脳神経外科医としての達成感が得られる。

 問題はどこまで削っていいのかが分からないということだ。



 しかし、視神経管の長さが何ミリだったか……

 確か脳神経外科の専門医試験に出題されたし、その時だけは記憶していた。

 でも、その数字の重要性を知ったのはたった今だ。


 いつの間にか別のレジデントが手術室に来ていた。

「10ミリっす、実測しました」


 そうか、CTで計測するという手があった。

 薄切はくせつスライスのCTで視神経の入口から出口まで、ディスプレイの上で測定すればいいのか。

 なるほど、こいつも馬鹿に見えて実は頭が良かったわけだ。


 ついに視神経管全体が開放された。

 視力回復するか否かは不明だが、やるべきことは成し遂げた。



「CTで測るってのは思いつかなかったよ」

「いや、計測したのは本物の骨っす」


 はあ?

 見れば、頭蓋骨を手に持っている。


「これで測りました」

「お、おい。そんなもの持ってていいのか!」


 ある意味、白骨死体の頭部じゃないか。


「いつの間にか僕の机の上にあったんです。前任者が忘れていったんですかね。一応、名前もつけたんで。ケイコちゃんっす、この子」


 ケイコちゃんって、お前、勝手に名前つけるなよ。

 大方、殺人事件の被害者か何かじゃないのか。


 警察に通報される前にどこかに隠せ!

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