第28話 知らない方が幸せな女

オレは左手にクリアファイルを持って歩いていた。

中身は他院からの診療情報提供書やファックスだ。

オレ宛に病院に届くので、それらを電子カルテに取り込む必要がある。

その役割は脳外科外来のクラークだ。


だから部屋から外来までクリアファイルを持っていかなくてはならない。

その数、5~6枚。


ふいにトイレに行きたくなった。

小の方だ。

目の前にトイレがあるので寄ることにした。 


クリアファイルはあごはさむ。

両手で保持して用を足す。

何を保持したかは言うまでもなかろう。


その時、院内PHSが鳴った。

右手で保持したまま左手でポケットを探る。

PHSの画面に表示されたのは研修医の名前だ。

こいつはいつもオレが用を足している時に電話してくる。


「もしもし、今、お時間大丈夫でしょうか?」

「ああ、いいよ」


その瞬間、顎にはさんでいたクリアファイルがペローンと便器の中に落ちた。

しゃべった時に顎が動いてしまったのだ。


大便器でなく小便器だったのが不幸中の幸いだ。

でも大変なことには違いない。


オレはしゃがんでそっと小便器からクリアファイルをつまみ上げた。

もちろん濡れている。

びしょびしょじゃないのが救いだ。


電話の向こうが何か言ってるが、こっちの方が優先だ。

なんせ、大事なクリアファイルを救出したところだ。

適当に返事して切った。


そうしながらも一時中断していた生理現象を再開し、そして終了した。

マルチタスクどころではない。


もう手を洗うなんてどうでもいい。


それでもトイレの紙でクリアファイルをサッとくのは忘れなかった。

丁寧には拭いていない。


どうせスキャンのために外来クラークに渡すものだ。

どういう由来のクリアファイルか、知らない方が彼女も幸せだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る