第20話 耳の奥が痛い男

 その男性は口腔内から耳の奥の激痛に苦しめられていた。

 いわゆる舌咽神経痛だ。

 痛みで夜も眠れない。

 ついには4時間毎の鎮痛剤を必要とするようになった。


 最後の手段、手術しか方法はない。


「脳の奥にある舌咽神経を動脈が圧迫して痛みが起こっているので、その部分を除圧します」


 オレはホワイトボードに図を描いて説明した。


「先生はこの手術、何回目ですか?」


 そう奥さんに尋ねられた。


舌咽神経痛ぜついんしんけいつうの手術は今回が初めてです」


 嘘をつくわけにはいかない。


 しかし、オレには成算があった。

 既存の技術の組み合わせでできるはず。


 場所的には椎骨動脈瘤ついこつどうみゃくりゅうの手術とほぼ同一術野だ。

 また、顔面痙攣がんめんけいれんの手術と似た操作となる。


 問題は滅多に出くわさない疾患だということだ。

 ほとんどの脳外科医が一生に1回遭遇するかどうかだろう。

 やったことのない手術の場合、どこに落とし穴があるかが分からない。


 未知のものに対峙する不安。

 術前に頭の中で何回も手順をシミュレーションする。

 起こり得るトラブルを想定し、備えを固める。

 徹底的に考えることだけが恐怖を忘れさせてくれる。



 いざ、本番。


 開頭して、硬膜を切る。

 やはり緊張していたのだろうか。


 顕微鏡マイクロ操作にうつったときに計算違いに気づいた。

 クモ膜を切開しても、副神経が見当たらない。


 髄液吸引が不十分で小脳がかぶさっているのか?

 開頭がどちらかにずれたのか?

 疑念が頭をよぎる。


「ちょっと開頭をひろげるか」


 オレは助手に言った。


「一旦マイクロをおろしますか?」

「いや、このまま行こう」


 冷静を装ってみせる。

 しかし、マイクロ操作の途中に開頭を拡大するのも情けなさすぎる話だ。

 一体、どれだけのタイムロスになるのか?


 いや、時間のことは気にするまい。

 目的を達成することだけを考えろ。


 硬膜を開け、さらにクモ膜を切り進めたとき、ついに副神経を見つけた。


「ようやく、いつもの景色が見えたな」

「もうすぐですね」


 一気に迷走神経から舌咽神経まで視野におさめる。


 これらの神経に細い動脈が何本も流入しているのが見える。

 細心の注意を払って血管をよけながらクモ膜の切開を進めた。

 いくら細くみえる動脈でも極力温存する。

 切ったときの影響が予測できないからだ。


「舌咽神経の向こうに見えるのが後下小脳動脈パイカだな」

「そのようですね」

「圧迫は1ヵ所とは限らないから慎重に行こう」


 他に圧迫部位がないことを何度も確かめた。

 その後に舌咽神経と後下小脳動脈パイカを十分に剥離はくりする。

 間にテフロンフェルトを挿入して除圧した。


 これでやるべきことはすべてやった。


 止血を確認しながら頭の中で手術を振り返る。

 少し回り道になったが血管は1本たりとも切っていない。

 後は痛みの消失を祈るのみ。



 麻酔から覚めたとき……

 男性の痛みは消失していた!



 正直、手術をするのは怖い。

 些細なミスが重大な結果を招くからだ。

 その一方で手術を無事に終えたときの達成感と安堵感は何物にも代え難い。


 その瞬間のためにオレは脳外科医をやっているのかもしれない。

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