第15話 再び局所がムズムズする女

(前回からの続き)


「もう心が壊れてしまいそうです!」


 半年ぶりに診察室を訪れた高齢女性はそう言った。

 以前、オレが低髄液圧症ていずいえきあつしょうと診断した患者だ。


 聞けば、以前と同じような症状が2ヶ月ほど前から出現したという。

 つまり局所がムズムズする、というわけだ。

 おまけに頭痛もあるらしい。


 今回もオレのところに来る前に婦人科ギネ泌尿器科ウロを受診していた。

 それぞれ1回ずつに減ってはいたけれど。


「万歳しても治らないんですよ、今度は」


 本当にそうだろうか?


 こういうことは診察室で丁寧に再現してみるに限る。


「じゃあ両手で万歳してみましょう」

「変わりません。前はピタッと止まったのに」


 どうやらムズムズが一向にとまらないみたいだ。


「次はくびを締めてみましょう、もちろん軽くですよ」


 いわゆるクエッケンステット試験という手法だ。

 こうすれば静脈還流だけ止めるので結果的に頭蓋内圧ずがいないあつがあがる。

 そして症状が軽減する……はずだった。


「頭痛の方は少しよくなりました。でもムズムズはとれません」


 なかなか手強い。

 そもそも低髄液圧症だろうか?


 次は診察台の上に寝てもらった。


「頸を後ろにらすと血の気が引くんです」


 診察台に横になりながら女性は無関係な事を口にした。


「右を下にすると右手がしびれます」

「順にいきましょう」


 患者自身がどの症状を優先すべきかが分からない。


 たとえるなら、受験生が陥りがちなパターンとでも言おうか。

 つまり試験前に英語を勉強していたら数学が心配になる。

 かといって数学にとりかかったら今度は国語が気になってくる。

 こういう時は1つずつ片づけるべきだ。


「コメカミと後頭部も痛いです。心房細動しんぼうさいどうが出てきて、右の腰も痛いです」


 不安に思うのは英数国だけじゃない。

 どうやら物理も化学も、のようだ。


「かかりつけの先生には心筋焼灼術アブレーションをしろって言われてるんだけど」

「お母さん、今ここで言っても仕方ないでしょ!」


 母親に付き添ってきていた娘が言葉にした。

 まさしくオレの思っていたことだ。


 せていて、イライラしていて、心房細動がある。

 ひょっとして甲状腺機能亢進症か?


 何らかの感染症や悪性疾患も考えられなくはない。

 まさか膠原病こうげんびょうはないだろう。


 まずは採血、そして画像診断だ。


「低髄液圧症はあると思いますが、それだけじゃない。何か加わっていますね」


 一筋縄ひとすじなわではいかない嫌な感触。


 ひょっとして、鬱病うつびょうか。

 それで色々な症状が実際よりつらく感じられるのか?

 オレの手には負えないかもしれない。

 近くのメンタルクリニックに紹介するべきか。

 それだったら女性医師の方がいいかな。


 とりあえず採血と頭部CTに行ってもらった。


 検査したからといって何かが引っ掛かるという気がしない。

 案の定、これといった異常はなかった。


 T4、TSH、HbA1C。

 そしてCEA、CA19-9、CA125も。

 ついにはAFPまで調べちまった。

 すべて正常だ。


 研修医がやりがちな絨毯爆撃じゅうたんばくげきじゃないか。

 事前確率じぜんかくりつも何もあったもんじゃない。


 でも、やらずにはいられなかった。

 まるでおのれの無力さを確認するかのように。



 もう1度考えよう。

 あきらめてはならない。

 診察時間が長くなっても気にするな。

 あとの患者は待たせておけ。


 この症状はいつから起こったのだったかな。

 2ヶ月前だ。

 そう、「2ヶ月前」とはっきり言ったよな。


 急に起こっている。

 普通は発症オンセットをそんなにはっきり言えないものだ。


 ということは薬か?


「2ヶ月前に何か新しい薬を始めませんでしたか?」


 そう尋ねるとバッグからお薬手帳が出てきた。

 内容を確認する。

 複数の医療機関から、あわせて10種類以上の処方がされている。

 クソッ、多剤併用ポリファーマシーか!


 落ち着け、よく見ろ。

 このくらいは普通じゃないか。


 3ヵ月前から新たな薬が始まっていた。

 経口抗凝固薬エリキュースβ遮断薬メインテートだ。

 心電図で心房細動しんぼうさいどうが確認された翌日に開始されている。


 これらの薬が1ヵ月かかって蓄積し、症状を出したのか?


「ひょっとして薬の副作用かもしれませんよ」


 手持ちのスマホで処方薬の副作用をチェックする。


「エリキュースには精神・神経系の副作用はなさそうですね」


 娘が先に言った。

 オレと並行して調べていたみたいだ。

 医療従事者じゃないのに勘がいい。


 エリキュースでないなら、メインテートということになる。


「メインテートで気分が落ち込むことはあり得ます」

「そうなんですか」

「ちょっとめてみましょうか。処方している先生には申し訳ないけど」

「かまいません、こっちの方が優先です」


 娘の決断は早かった。


 メインテートで鬱症状が出ているとすれば辻褄つじつまが合う。

 やたら訴えが多いのも。

 横になっても症状が取れないのも。


 何といっても得体えたいの知れない邪悪さがピッタリだ。


「もし薬の副作用が原因だったら母の愚痴ぐちも許せる気がしてきました」

「薬で人格を変えられていたってことですからね」

「こんな母じゃなかったのにって、ずっと思っていたんですよ」


 確かに半年前はもっと背筋の伸びた人だった。

 この2ヶ月間、自分でも不本意な状態になってしまったんだろうと思う。


 時間こそかかったが、ついに不調の正体を突き止めた。

 薬さえやめれば解決するに違いない。


「心配いりません。ちゃんと、明るく前向きな人間に戻ってもらいますから!」


 オレは勝利宣言をした。


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