第8話 10の主訴を持つ女

その患者の問診票にはやたら書き込みが多い。

主訴だけでも10はあっただろうか。


息子とおぼしき中年男性の押す車椅子にのって外来診察室に入ってきたのは80歳くらいの高齢女性。

なぜか、すたすたと歩いて患者用の椅子に座った。


くびが痛いとありますが、いつ頃からでしょうか?」

「頭も痛いの。こことこことこっち」

「それは最近痛くなってきたんですか?」

「目もおかしくて。眼科に行った方がいいのかな」


尋ねたことに答えてもらえない。

自分の言いたいことだけが返ってくる。


「頭痛が始まったのは3ヵ月ほど前からでしょうか」

「食欲がなくて。1年で8キロも体重が減ったの」

「確かにちょっと痩せておられますね」

「夜眠れないのよ」


駄目だこりゃ。


「岩山先生は頚椎症けいついしょうだと言うんだけど、笹川先生は脳が悪いって」


オレが知りたいのは事実であって、見解ではない。

ナントカ病院のカントカ先生がこう言ったとかはどうでもいい。


「色々お困りのようですけど、優先順位をつけましょうよ」


話の主導権をとりにいく。


「もし神様が1つだけ治してやる、と言ったらどの症状を良くして欲しいですか?」

「頚の痛いのと頭痛と目の圧迫かな」

「3つは多すぎです。1つだけですよ」


こちらの言ったことが伝わっていなかったのか?


「そしたら頚と頭痛」


それでも2つだ。


「左手がしびれるのは頚のせいだって、岩山先生が……」

「じゃあね、ちょっと立ってみてください」


話の腰を折った、ポキッと。


「私が手で頚を牽引けんいんしますからね」

「先生がやってくれるの?」

「そう、壁の方を向いてカレンダーを見ておいてくれますか」

「目は閉じた方がいいのかな」

「開けておいてください。後ろから引っ張るから痛かったら言ってくださいね」


両手で後頭部こうとうぶを保持し、上に向かって頭を押し上げた。

結果的に頸椎けいついを牽引することになる。


「左手の痺れはどうですか?」

「ちょっと良くなったかな」

「頚の痛みは?」

「少しマシ」

「視野が明るくなったとか?」

「でも頭は痛いまま」


頚の痛みも手の痺れも改善したのだから、ちょっとは喜んでくれ。


「次は頭の痛いところに注射しましょう」

「この前、注射されたら吐いちゃって」

「注射されたのは頭ですか?」

「点滴して30分ほどしたら気分が悪くなったのよ」


まさか頭に点滴したわけでもなかろう。


オレは痛いという申告のあるところにかたぱしから局所麻酔薬を打った。

いわゆるトリガーポイントブロックだ。

ついでに頚にも打っておいた。


「頭が軽くなったでしょう」

「だけど夜眠れなくて食欲が……」

「とりあえず頭痛、頚部痛、手の痺れが良くなっただけでも感謝しましょうよ」

「でも」

「困り事が10個あって、それが7個に減ったら、3個分は喜んでください」

「良くはなったんだけど」


この人、生き方が根本的に間違っているんじゃないか。


「なんかスッキリしないの」

「スッキリするわけないでしょ、80歳で」

「あの、79ですけど」

「79歳でスッキリしている人なんか見たことないですよ、私は」

「前はもっとスッキリしていたの」

「前ってのは10年前ですか、それとも20年前?」

「いやそんなに前じゃなくて」

「お友達にスッキリしている人なんかいないでしょ。皆、腰が痛い、夜眠れない、物忘れがひどい、耳鳴りがするって、そんな愚痴ぐちばかりこぼしているわけですから」

「愚痴って言われるけど、ホントに困っているの」

「あのね、年を取るってことは、『おかしい、こんなはずはない』の繰り返しです。頭の中の自分と現実の自分とのギャップがどんどん大きくなってくるんですよ。80歳になろうって年齢でね、自分の事が自分でできるって、それでなんの不足があるんですか!」


一気にまくしたててしまった。


「じゃあ、会計は1階です。お大事に」

「また来てもいいですか?」

「いいですけど、私が対応する症状は1回に1つだけですよ」

「それでいいので、お願いします」

「じゃあ、3ヵ月後に予約を入れておきましょう」

「来週じゃあダメですか?」


岩山先生にも笹川先生にも軽くあしらわれているのだろう。

しばしの問答ののち、1ヵ月後の再診を約束させられた。


救いはずっと支持的サポーティブであった中年男性の態度だ。

実は娘婿むすめむこだという。


「ちゃんと病院に付き添ってきたんだから、奥さんに対してポイントを稼げましたね」


そう冗談を言ったら、真顔で答えられた。


「家内がどう思うとかは気にしていません。お義母かあさんが良くなってくれたらそれでいいんです」


なんと立派なお婿さん!

茶化ちゃかしてしまったことを後悔した。


オレもまだまだ修行が足りないな。

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