第6話 入学して引っ越してくる女

 今日、オレの診察室にやってきたのは母親とその娘だ。


 娘は体調不良に明け暮れた高校時代を送った。

 幸い大学に受かったのでこちらに転居してくることになったのだ。

 母親にしてみれば独り暮らしになる娘が心配だ。


「とにかくどこかの医療機関につながっていたい、というニーズでしょうか?」

「そうなんですよ」


 直球で尋ねたら直球が返ってきた。

 隣の娘も神妙にうなずいている。


「それでは、3ヵ月に1回程度で通院してください」

「分かりました」

「お母さんも一緒に来てもらったらいいですよ」

「いいんですか?」


 波はあるが娘の体調不良は徐々に改善している。

 この親子に必要なのは気のいた治療ではない。

 誰かに見守ってもらっているという安心感だ。


「実は9月からアメリカに留学することになっていまして」

「アメリカのどちらですか?」

「まだ決まっていないんです」


 留学といってもコロナ次第だろう。

 ひょっとしたらオンライン留学になってしまうかも。

 そうなったら異国の生活どころではない。


「実は私も3年間、アメリカに留学していました」

「ええっ、どちらですか?」


 それまでつまらなそうにしていた娘の顔がパッと明るくなった

 オレは東海岸にある町の名前を告げた。


「すごーい!」

「でも、英語では死ぬほど苦労しましたよ」


 オレの言葉を実感するのは行ってからだ。


「ところで、向こうの人と仲良くなるコツを教えてあげようか?」

「ぜひ、教えてください」


 オレが3年かかって体得たいとくしたワザだ。

 簡単に伝授するのはしい気もする。


「とにかく名前を覚えることです」

「名前?」

「単語カードに書いてでも相手の名前を記憶してください」


 これはホントのことだ。

 相手がボスの秘書でも、サンドイッチ屋の親父であっても。

 とにかく相手の名前を訊け、覚えろ、そして呼べ!


「それでね、たとえばメアリーさんの顔を見たらこう言ってください。ハイ、メアリー、ハウヤドゥーインッ!」


 つい身振り手振りまでついてしまった。

 親子はドン引きだ。


「相手に言われたときの答えも準備しておきましょう。グーッ、ハーワイユーッ!」


 構わず続ける。


 もうね。

 英語でしゃべる時は人格が完全に入れ替わってしまうから、オレ。


「むこうでの1週間の生活は日本での1ヵ月に匹敵します」

「そんなに?」

「悔しいこと、嬉しいこと、それらがギュッと詰まった経験です」


 オレのアメリカ生活、ホントに色々な事があった。

 絶えず自己主張することを強いられる日々。

 そんな中、オレの書いた論文が連続して有力ジャーナルに受理アクセプトされた。

 途端に周囲からの扱いが変わった気がする。


 人生で最もつらく最も楽しい3年間だったといっても過言ではない。


「アメリカに留学したらね、逆に日本の素晴らしさを知ることもできますよ」

「そうなんですか」


 美しい風景、きちんとした社会システム、まともな人々。

 奇跡の国にオレたちは生まれたんだということを実感できるのも留学したからだ。


「ぜひ視野を拡げてきてください」

「ありがとうございます!」


 未来ある若者に幸多さちおおかれ、と心から願う

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