第4話 ウンコを踏んだ男

 朝早く、エレベーターに乗った。

 この時間だから職員ばかりだ。


 ふと足元から「ネチョッ」という音が聞こえた。

 オレのいているクロックスがからめとられた感触がする。

 床をみると茶色いものが落ちていた。


「何これ?」


 そうつぶいたオレに間髪かんぱつを入れず左右から答えが返ってきた。


「ウンコと違いますか?」

「先生、ウンコ踏んでますよ」


 そんな馬鹿な!


「オレ、ウンコが嫌いで脳外科やっているのに!」


 思わず叫んだ。


 そういう不純な動機で脳外科を選んだ同僚は沢山たくさんいる。

 ゲロには強いがウンコには弱い。

 皆の共通意見だ。


 でも逃げようとするほどウンコには追いかけられる。


「ちょっとにおってますね」


 泣きそうになりながら、オレはあわててエレベーターを降りた。

 その辺の床にクロックスの底をこすりつける。



 つい、これまでの医師人生を思い出す。


 病室に行った時にウンコが落ちていたこと。

 そのときも油断していて踏んでしまった。


 こんなこともあった。

 腰椎穿刺ルンバールをしている最中の患者に便失禁べんしっきんされたのだ。

 よけるもなく白衣のズボンに浴びてしまった。


「手術室から術衣じゅついをとって来てあげようか?」


 すかさず同僚に言われた。

 手術用下着と取り替えろってことだ。

 表情ひとつ変えずに言われた事の方が怖かった。


 もう日常と非日常の境目さかいめが分からん!



 でも、便の匂いが安心感につながることもある。


 脳室腹腔短絡術のうしつふっくうたんらくじゅつ、いわゆるVPシャントの話だ。

 5センチばかりの皮膚切開で腹腔ふっくうに達する必要がある。

 消化器外科医と違って、脳外科医はこの手術操作があまり得意でない。


筋鈎きんこう、大きいやつ」


 手渡された筋鈎で脂肪を分ける。

 透明な膜が露出されるが、これが腹膜かどうか確信を持てない。


長鑷子ちょうせっし


 2本の長鑷子で透明な膜をまむ。


「よし、こっちの長鑷子を持っていてくれ」

「持ちました」


 助手に把持はじしてもらう。


「スピッツメスをくれるか?」

「はいっ」


 直接介助看護師スクラブナースから渡されたメスで透明な膜を切る。

 フッと空気の抜ける感触、奥に見える無限の暗闇くらやみ


 そしてかすかにただよってくる便臭。


 腹腔内ふっくうないに達した瞬間だ。


 消化器外科の連中は考えたことすらないだろう。

 常に便を敵視てきししている脳外科医ならではの鋭敏さかもしれない。


「便臭への嫌悪感けんおかんと安心感の二つ、われにあり」


 そう言わせてもらおうか。





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