第3話 一流シェフも高級食材も勝てない味。
特に何の変哲もない、よくある施設の中にある気軽な大衆食堂。ホテルの一流シェフはもちろん居ない。地元の方たちやアルバイトの皆さんで切り盛りしており、メニューはカレーや麺類などごく普通のありふれた面々。一般のお客様も利用しており、室内には食堂独特のいい匂いが漂っている。心地よい疲労感を癒すグッドスメルにしばし包まれる。
スキーももちろん楽しみだったが、食事も同様に楽しみにしていた。たくさん運動してお腹がペコペコである。献立はまだ知らされておらず、席に着きしばらく経ってようやく発表された。私は一瞬、顔を引きつらせてしまった。
『本日のお昼は牛丼です。』
牛丼。今でこそ、格安チェーン店の存在により庶民の味方・親しみのあるメニュー的な立ち位置だが、当時は牛丼屋というものがまず存在していなかった。『キン肉マンで出てくる食べ物』というレベルの認識度。当然私はこの日まで牛丼という食べ物を口にしたことが無かった。何なら、リアル牛丼とは初対面となる。
前章の話に続くが、私はとんでもない偏食娘。まず、食べたことが無い・見たことが無いものは進んで食べようとしない。そして当時は何故か『白飯におかずの味が混ざる』ことに苦手意識があり、牛丼はまさにそれであるため完全に詰んだ小学生女子。楽しみだった食事が、一気に苦行の場となるとは…。
各自で牛丼を席に運ぶ。目の前には、白飯の上にドンと乗っかった煮込まれた牛肉と玉ネギ。何やら赤い物体まで添えられているではないか。これは…紅ショウガ?白飯と牛肉、そして玉ネギが紅ショウガが混ざるなんて、一体どんな味になるというのだ。わからない。だから食べられない。そんな自問自答が数分続いた。ふと周りを見ると、みんな牛丼を美味しそうに食べ始めていた。いつの間にか『いただきます』をしていたようだった。
「あれ?食べないの?すごく美味しいよ!」
私の隣で、牛丼を無邪気に頬張る友人のユリカちゃん。私は、そろそろ食べようかなと良く分からない返答をしてしまう程度には動揺を隠せていなかった。
得体の知れないものは食べたくない。しかしこの後もスキー教室は続く。何も食べない訳にはいかないことなど小学生でも理解していた。激しい葛藤の中、空腹が限界に達したのか突然嗅覚がより鋭くなった感覚を抱いた。
牛丼の匂い、とても美味しそうではないか。
食べたことが無いからきっと無理、という先入観から、最初は牛丼の匂いすらも拒絶していたのかもしれない。しかし極限状態になった今、牛丼の匂いがとてつもなく食欲をそそる。これはチャンスだ。私は思い切って箸で牛丼をひと掴みして口へと運んだ。白飯・牛肉・玉ネギ・紅ショウガ、これらがいっぺんに口の中へと広がったその瞬間、私は頭が真っ白になった。
「お、おい…しい…?!」
思わず心の中の声が外に漏れてしまった。それを聞いたユリカちゃんは、笑いながらウンウンと頷いていた。私は夢中で牛丼をかきこんだ。普段は食事が遅い私なのにものの数分で平らげていた。何なら、おかわりは無いのか食堂のおばちゃんに聞きに行っていたくらいだ。その姿を見た他のスクール生が、俺も私もと押し寄せ特別にみんなおかわりOKが出た。牛丼が生んだ一体感はとても心地良く、青春の1ページとして胸に刻まれた。
味が混ざるのが嫌いだった理由は、今となっては明確には分からない。ただ言えるのは、『スキー教室で食べる牛丼』はとても美味しいという事だ。私の中で、牛丼と言ったらあの日食べた牛丼。親しみのあるチェーン店や、食材にこだわったお高い店の牛丼より、あの日食べた牛丼をもう一度食べたい。
一流シェフも高級食材も勝てないその秘密は、心地よい疲労感と友人と来たスキー教室というプライスレスの時間。きっと最高の調味料なのかもしれない。だってあの日食べた牛丼の味付け、濃かった・薄かったなどの詳細は殆ど覚えていないもの。そんなことはどうだって良い位に、最高に美味しかった。ごちそうさまでした。
私をスキーに連れてって。その心は『あの味を求めて』。 いなんちょ @inancho
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