師匠のはなし
群青更紗
第1話
師匠が辞めてしまった。手紙が届いてそれを知った。上がり框で途方に暮れた。雪は無くとも寒い冬の夜だった。
師匠に会った日のことを思い出す。やはり雪の無い寒い冬の夜で、待ち合わせ場所に凄い人がいると思ったらそれが師匠だった。明確に高齢者でありながら、その恰好は私より若かった。当時ギリギリ20代の私より若い恰好というのは、真っ白なダウンコートに膝上の、これまた真っ白なピンヒールブーツ。それに合わせるスカートは当然ミニスカート。ミニスカートは私のワードローブでもあるが、それ以外はどれも持っていない、着たこともない。何より綺麗に化粧した顔は、私が普段おざなりにしているものの全てだった。共通していたのは姿勢が良いことくらいだ。
「紗矢ちゃんは、お化粧はしないの?」
後に、私が正式に師匠に弟子入りした後、休憩中に言われたことがある。師匠は長い睫毛(つけ睫毛だった)で縁取られた目を私に向けてゆっくりと瞬かせ、細い煙草を吸っていた。「あっはい」と、私は思わず返事をして、それから道場に向かう時には必ず念入りに化粧をした。つけ睫毛はしないがマスカラは塗った。
師匠は剣舞の師匠だった。剣舞とは日本刀と扇を使った舞踊である。師匠の刀は師匠が師範代となった時、その祝いにと、同じく剣舞を嗜んでいたご主人に買って貰ったものだそうだ。号の名に選んだ字と同じモチーフが柄に象られていて、「少しでも軽い方が踊りやすいから」という理由で鍔は透かしだった。当時パートで働き出した私の月給より高かった。その刀を「こっちの方が可愛いから」という理由で釣り竿用の赤いキャリーケースに入れていた。「本当はピンク色が欲しかったけど、なかったから」と師匠は、それを自分でラインストーンで彩っていた。
師匠と私はいつも二人だった。地方の格安の会館で、毎週火曜日にマンツーマンで教わった。最初は胴着の着方も分からず、毎週師匠に気付けて貰っていた。師匠からは香水さえ薫っていた。見る人が見たら大歓喜の、の百合百合しい状況だったかもしれない。私にその趣向は無かったけれど。
師匠の舞は美しかった。「凛とした」と表現するのがこれほど似合う人もいないと思った。出会った時の姿には驚いたが、すぐに慣れてしまったのはそれが師匠にとても似合っていたからだ。背は私より低かったが、体の細さは師匠の方が上だった。それでいて体幹が強く、「もっと腰を落としてね」とはよく言われた注意のひとつだ。後になって、各地方の同じ流派の合同練習に参加した時、大勢の師範がいる中で、私にとっては師匠こそが際立って美しい人だと気付いた。その師匠の手ほどきを独占していたというのは、今思い出しても贅の極みである。
師匠は詩舞の師範でもあった。詩舞とは奥義を使った舞のことだ。元々日本舞踊を嗜んでいたところ、嫁いだ先の義母が剣詩舞の師範で、徒弟制度のルールで弟子を増やさねばならず、その流れで弟子になったという。勿論ご主人も一緒だった。その義母が亡くなり、ご主人も先立ち、師匠はひとりで続けていた。「詩舞もやってみない?」と幾度か勧められたが、ひとつずつ習いたい――というより月謝が二倍になるのが辛い――という私の意向で、「剣舞の師範を取るまでは」と始めずにいた。こんなことになるなら習っておけば良かった。私が休会して二年が過ぎていた。
全てはCOVID-19の流行が悪い。否、それに伴う日本政府の対応が悪い。経済政策の優先、というよりただただ「東京オリンピックを開催したい」というだけで、中途半端なロックダウンと雀の涙ほどの金を配っただけのあの対応が。昭和の威光を忘れられない金持ちの老人たち。結局何人の無益な死を引き起こしたのか。私が剣舞を休会したのは別の理由があったが、復帰出来ずに二年が過ぎたのは間違いなくコロナ禍のせいだ。休会後すぐに失業が決まり、転職先はブラックの極みで双方両想わずにより短期退職し、その後一年以上仕事が無かった。剣舞は一度退会すると、再開時にゼロからのスタートを切らされてしまう。休会なら階級は持ち越せるので、休会限度の二年以内に戻るつもりでいた。二年後に師匠が先にいなくなるとは思わなかった。そして師匠が辞めたのも、コロナ禍のせいだった。
「発表会がたびたび延期になり、気持ちが切れてしまいました」とは師匠の手紙の言葉だ。師匠でも気持ちが切れることがあるのだと驚いた。あまりに驚いて声を上げた。夕飯を貰おうと食器の前に移動していた猫たちが見に来たが、雰囲気を察してか静かに戻っていった。手紙には預けていた講習会費(手紙は現金書留に添えられていた)――それこそ、休会直後にコロナ禍で延期となった、剣舞とまた別の、刀法講習会の――が一緒に包まれていた。師匠が本当に辞めてしまった、と実感した瞬間だった。休会していても、連絡をしていなくても、必ず戻るという意思の、それは証であり絆であった。それが手元に帰ってきた。三人の野口英世は、あの日預けた三人、多分それらだった。私はそれらを財布に入れた。その瞬間、私はもう剣舞を退会するのだろうと思った。
「私も家族も元気にしています。紗矢ちゃんも元気に過ごしてください」との言葉を見たとき、いつかの師匠の言葉を思い出した。一時期、師匠のお嬢さん(私より少し年上だ)も剣詩舞を習っていたという。「いっぱい楽しいことがあるわよね」と仰った師匠は、少なくとも寂しげでは無かった。だから今の師匠にも、きっと剣詩舞以外の楽しいことがあるのだ。多分師匠は今日も、つけ睫毛をつけ化粧をしっかり施して、私より若い服装で、綺麗な姿勢でソファにでも腰掛けながら、煙草をくゆらせてビールを飲んでいるだろう。
そういえば、師匠の二刀流の舞を一度だけ見た記憶がある。それが何の曲のどんな舞だったかは思い出せないが。剣舞は種類が多い。多いどころか増えていく。もちろん基本の型はあるが、曲があって振り付けがあれば剣舞になるのだ。思い出せないが、師匠がその日も、凛と踊っていたことは覚えている。
剣詩舞は年に一度、昇格試験がある。最初の試験のとき、別の教室の先生から、「師匠にそっくり」と言われてとても嬉しかった。勿論その頃の舞は、いや今でも、とても師匠に追い付けていたものではないが、それでも「踊りがそっくり」と言われたし、何よりおそらく、芯を通す何かが同じと思われたことが嬉しかった。
剣詩舞に限ったことではないが、文化の継承は年々難しくなっている。若者の収入は減らされる一方で、課金対象は増える一方で、限りある資源をどこに費やすかは死活問題とさえなってきた。それでもそんな中で、日本刀をモチーフにしたゲームが大流行し、その流れで剣舞を志す人が門戸を叩いたとき、その流れを汲もうと発表会で剣詩舞の舞が組まれたことがあった。師匠は宗家ともう一人の師範と、それらの装束に身を包んで部隊で舞った。あれから門下生は増えただろうか。
私はどうすべきなのか。師匠が辞めても師範は他にもいる。同時期に始めた別の教室の友人もいる。しかし何だか、このまま私も辞めてしまおうかと思っている自分がいる。通い先が遠くなる煩わしさは確かにある。しかしそれは大きな問題ではない。問題は、私が師匠以外を、師匠にしたくないことだった。その一方で、師匠に習ったものをこのまま朽ちさせてしまうのも惜しい気がした。これから私が習う人のことは師匠と分けて「先生」と呼べば良いのだろうか。そういう問題なのだろうか。いや、そういう問題なのだ。
“糸と糸つなぐ気持ちの声としてあなた以外を師匠と呼ばない”
師匠の加州清光を忘れない。
師匠のはなし 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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