第38話 致命的な誤解・3(※フレンヴェール視点)
今はもうネクセラリアに対して何の感情も抱けない。あれだけ恋い焦がれていたネクセラリアに抱いていた愛が露のように消え失せてしまった。
だが記憶にはハッキリ残っている。私は確かにあの儚く美しい天使を愛した。あの公爵に心捻じ曲げられていく感覚もハッキリと思い出せる。
だが――今再びその時の感情を呼び起こそうとしても、微塵も浮き上がらない。怒りや嫌悪感だけが沸々と湧き上がってくる。
『フレンは元々お姉様の声に恋していたのよ』
違う。あれは私の想いが邪魔になったネクセラリアの嘘だ。ウィスタリア様にあんな綺麗で繊細な声を出せるはずがない。
ウィルフレド様もあの時の従者もウィスタリア様に歌の才が無いと言っていた。誰もが聞き惚れるだろうあの歌声がそんな風に評価されるはずがない。
だが私はウィスタリア様の歌声を聞いた事がない。ハッキリさせるにはウィスタリア様に一度歌ってもらえば良いのかもしれない。
しかし聞いてしまったら私の感情は完全にそれに飲み込まれてしまう気がする。
たとえ本当に勘違いから始まった恋だったとしても、私はネクセラリアを――彼女の可愛らしさと、懸命に負の感情を抑えて皆の期待に応えようとする姿を愛していたのに。
認めたくない。認めるのが恐い。認めてしまったら、私は――
葛藤の中で業務を終えた後は離れ家に戻って部屋に鍵をかけて酔い潰れて眠る日々が続き、あっという間に結婚式の日がやってきた。
銀糸を使った刺繍や落ち着いたレースがあしらわれた紫色のドレスに身を包んだウィスタリア様はまるで夜の女神のように美しかった。
素直にそれを伝えたい自分と、美しいと感じる自分の感情に従いたくなくて何も言わないでいる自分がいる。しかし体は自然とウィスタリア様に寄り添い、滑らかに誓いの言葉を述べる。そして口づけを交わした際には絶望と悪寒が走った。
私の唇が震えていたのを彼女も分かっていただろう。だがお互い何も言わなかった。ウィスタリア様は何処となく寂しそうに遠くを見据えていた。
その姿は言葉に言い表すことが難しい位、美しかった。
そして私はその後のパーティーへの参加を許されず、ウィスタリア様の部屋に通される。これまで一度も入らなかった部屋の天蓋付きのベッドで今夜、私は彼女と契らなければならない。
おぞましい。一度彼女と交わってしまったら私のこの抵抗も押し潰されてしまうのだろうか?
いっそそうなる前に自害してしまおうか? 私の心を物のように弄ぶ彼女や公爵に対する意思表示として。
だが――そうしたらウィスタリア様は傷つくだろう。それを思うだけで心苦しくなる。ああ、本当に、殺さないのならいっそ理性すらも記憶すらも操作してくれたら良かった。
自害する事も出来ず、私の足は自然と館のワインの貯蔵庫に向かっていた。
素面ではあの方を抱けない。酔った状態であれば――と思いワインに口をつけたがこんな日に限ってどれだけ飲んでみても酔えない。
侯爵の伴侶となった私を止める者はいない。1本開けては2本持って戻り、2本開ければ3本持って戻り――いつの間にか私はウィスタリア様のベッドに横たわっていた。
ぼんやりする視界で時計を見据えると0時近い。パーティーはとうに終わっているだろう。しかし部屋にウィスタリア様の姿はない。
頭が痛む中、汗ばむ体を少しでも冷やそうと窓を開けると柔らかな風が吹く。それと同時に綺麗な――心を刺すような悲しい歌声が聞こえてきた。
(この声は……!?)
聞き覚えがある酷く懐かしい歌声に体を巡っていたはずの酔いが冷めていく。
代わりに巡るのは再びこの歌声を聞いて沸き起こる熱と、現実を知らしめられる恐怖の冷え。
足が宙に浮いたような感覚を覚えながら辿り着いたガゼボは星明かりに照らされて神秘的な雰囲気を漂わせていた。その中で――ショールを羽織って高らかに歌うウィスタリア様の姿があった。
声をかけるのも憚られるくらいに圧倒される。ネクセラリアの祝歌とは違う。ただただ心に悲しみと寂しさを、せつなさをもたらす歌。綺麗で美しい、威厳に満ち溢れた歌声が憐れな歌を紡ぎ出す。
ああ、女神が嘆きの歌を歌っている――
聞き惚れている内にウィスタリア様と目があって歌が止まってしまった。彼女は少し驚いた顔をした後――顔を伏せて涙を拭った。
「ウィスタリア様……貴方も歌を歌えたのですか……?」
ゆっくりと彼女に近づきながら自然と声が紡がれる。
「ネクセラリアに比べれば全然大した事ないでしょう?」
「いいえ……ネクセラリア様の歌とは系統が違えど、貴方の歌声もとても素晴らしいものです。あの時……貴方と初めて会った日にガゼボから聞こえた声も今のようにとても綺麗で……悲痛な声だった……私は、その声に惹かれて……歌い主を癒やしてあげたかった……」
認めたくなかった事実が心に溶け込んで、私の彼女に対する抵抗感が消え失せていく。
「悲痛……そう……私はお父様に捧げる
眉を潜めて瞳を伏せる彼女に抗いようもない愛しさがこみ上げる。
「いいえ、とても綺麗で素晴らしい歌でした……!!」
「でも悲しさが伝わったのでしょう? もう心配しないでと願いを込めて歌ったのに……悲しさが伝わってしまっては駄目なのよ。あの時だってそう。貴方と初めて会った日もお母様がもうすぐ亡くなってしまうのが寂しくて酷く悲しみがこもった歌を歌ってネクセラリアを心配させてしまった……そしてお父様にお前の歌は負の感情が出すぎると言われて、それから唄わなくなったのよ」
「そうだったのですか……」
全ての疑問が解決する。あの時――ウィルフレド様と従者は歌声の質ではなく祝歌の才について話していたのだ。それを私は歌声の質の話だと誤解した。
『あんな綺麗な歌を歌うのだから儚く美しい方に違いない』という自分自身の先入観もあったかもしれない。
あの声の主を癒やしたいなどと思っておきながら、私は愛想笑いも下手な無愛想な少女と愛くるしい少女を見間違え――その声の主を誰より傷つけてきたのだ。
今の歌はあの時と何も――いや、あの時よりずっと悲痛で切ない歌声だった。まるでこの世の全てに嘆くような慟哭のように感じられた歌声は心に突き刺さった。
(今まで私は……この方に対して何をしてきた? 何を言ってきた?)
自分に慕情を向けられているのを分かっていながら、メヌエット嬢に裏切られた恨みやネクセラリアの不満をこの方に転嫁してこの方を傷つけ、散々この方の想いを踏み躙ってきた。
書き換えられた感情が本当の感情と混ざり合っていくのを感じる。ああ、これが
――私が、本来この方に抱くべきだった感情。
それを自覚すると同時に自分のこれまで犯してきた罪の重さに耐えきれずに膝をつく。
ハープが上手に弾けるようになった時のウィスタリア様の嬉しそうな顔。
魔導学院へ通う事になったウィスタリア様に贈ったアザリア様との合奏を聞いてくれた時の寂しそうな顔。
私と再会し、婚約できた事を喜ぶ顔。
私に叱責されて震える顔、私から冷遇される度に耐える顔、正面から反論する顔、私とネクセラリア様が抱き締めあう姿を見た時の顔――色んな表情が脳裏をよぎっては私の心を切りつけていく。
「ウィスタリア様……申し訳ありません……!!」
心を切りつけられる痛みにそう声を出さずにはいられなかった。そのまま手をも地面についてウィスタリア様に頭を伏せる。
「フレンヴェール……どうしたの?」
ウィスタリア様の戸惑う声が落ちてくる。
「わ、私は、貴方に今まで何という事を……!! 私が、本当に、癒やしたいと、助けたいと思った声の主は、貴方だったというのに、私は……何とお詫びすれば良いのか……! ウィスタリア様、本当に申し訳ありません……!!」
ひれ伏す私とウィスタリア様の間に沈黙が流れる。ウィスタリア様は今何を考えているのだろう? 怒っているのか、嘆いているのか――
「ねぇフレンヴェール……様付けはもうやめてくれないかしら? 貴方は様付けに拘っていたけれど私は夫婦の間に敬称はいらないと思ってるの。夫から様付けされる妻なんて嫌なのよ」
言葉が近くで囁かれると同時に頬に何かが触れる。恐る恐る顔をあげると、ウィスタリア様は目に涙を浮かべていた。
「い……いいのですか? それでしたら……どうか私の事もフレンとお呼びください……!!」
ウィスタリア様がずっと私をそんな風に呼びたがっていた事も知っていた。
今、私もそう呼ばれたいと心の底から願いながら、私の頬に触れるウィスタリア様の手を縋るように掴む。抵抗されるかと思ったら意外とすんなり握る事が出来た。
「フレン……ようやく私も貴方をそう呼べる日が来たのね……」
「ウィスタリア……」
涙をこぼしながら浮かべる、自然な笑顔に目が離せない。まだ、まだこの方は私に微笑んでくれるのだ。まだ私に焦がれてくれる気持ちが残っているのだ。
「……部屋に戻りましょう。今日は私と貴方の記念すべき日ですもの」
「は、はい……!」
手を差し出すとウィスタリア様はそっと手を乗せる。その手はとても儚く、細く見えた。
私が遠ざけ、棘を刺し続けた女性がいかに華奢な存在であったかを思い知らされて尚更心が痛む。
ウィスタリア、まだやり直せるなら――今度こそ見誤ったりしない。これからは貴方を、貴方だけをただひたすら想い続けよう。それで、貴方の心が少しでも癒やされるなら――
固く決意して横を歩くウィスタリアを見つめる。何の抵抗感も嫌悪感も抱かずに見るこの方の横顔は誰より高貴で、繊細で、美しいものに見えた。
「ちょっと用意する物があるからここで待っていて。すぐに戻るわ」
ウィスタリアが戻ってくるまでの間に空になったワインを片付け、ベッドと衣服を整える。あの方の歌で酔いが冷めたのは好都合だった。これ以上あの方に失態を晒す訳にはいかない。
先程まで飲まないとやっていられないと思っていたのに、今はあの方と夜を過ごせる事にどうしようもない高揚感と幸福感を覚えている。勝手なものだと自分でも思う。
数分後、彼女は戻ってきた。何も言わずにベッドに腰掛ける彼女の隣に座る。
そして美しい顔に手を差し伸ばした瞬間――視界がグラリと揺れるほど強い目眩に襲われた。
(こんな時に、目眩なんて……!!)
頭を抑えた瞬間、次は激しい動悸が襲ってくる。これは――酔いとは違う。自分の中に、別の魔力の色を、感じる。
もしや――と再びウィスタリアを見ると彼女はとても悲しい顔で微笑っていた。
「安心なさい……貴方が次に目が覚ました時には全て終わっているから」
ウィスタリアの言葉と悲しい眼差しを最後に、私の意識はそこで途絶えた。
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