第37話 致命的な誤解・2(※フレンヴェール視点)


 私は元々あの公爵が苦手だった。あの薄気味悪い微笑みを絶やさない、私とそう年が変わらない公爵は紺碧の大蛇にまたがって色んな魔物を討伐する。

 魔物の中には深海の魔物や人を惑わす淫魔など、他の公爵が請け負えない特殊な魔物もいた。


 そう、淫魔――ある日騎士達との雑談であの公爵は淫魔をまるで穢らわしい者を見たかのように執拗にかつ残虐に殺すのだ、という話になった。

 それこそ敵意や悪意を持っているのかという位に清々しい笑顔で執拗に殺し尽くしていたらしい、と淫魔に襲われた村に知り合いがいるという赤毛の騎士が言っていた。


 他の公爵が淫魔討伐を請け負えないのには理由がある。淫魔は人によって見える姿が違う。自身が最も愛する者、あるいは理想の異性のように見えるのだ。例えそれが淫魔の見せる幻覚だと分かっていても愛する者や理想の異性の幻覚は油断を誘い、それを殺し続ければ多くの人間は精神に異常をきたしていく。


 愛すれば愛するほどよりはっきり想い人に見える魔物を執拗に冷酷に殺して笑顔で微笑む――それはあの公爵が『異常』である事を示していた。


 ただでさえ薄気味悪い雰囲気を持って近寄りがたい印象を受ける上にそんなおぞましい噂が漂う公爵の元にネクセラリアが嫁ぐのが恐ろしかった。


 だがそれをそのままウィスタリア様やウィルフレド様に言えば私は不敬罪で殺される。淫魔の話をした赤毛の騎士が翌日から姿が見えなくなったように。


 死を恐れてはいない。だが死んでしまったらネクセラリアを守れない。私は彼女を何としてでも守りたかった。


 ウィスタリア様から『一伯爵家の子息如き』と言われた時に私もカッとなってウィスタリア様が傷つくだろう吐いた言葉を吐いた。


 ウィスタリア様を傷つけてでも、ウィルフレド様に失望されてでも、私はネクセラリアを守りたかった。今なお私の記憶から失せないあんな悲しい歌を彼女が二度と歌わずに済むように。


 結局ウィスタリア様が公爵との婚姻を受け入れ、ネクセラリアが満面の笑みを浮かべて私の部屋に飛び込み、私に想いを打ち明けてくれた時は天にも登る心地だった。


 どんな苦難や試練を与えられようとも、ネクセラリアとなら乗り越えてみせると決意した。ウィスタリア様の叫びに嘆き、涙を零すネクセラリアを抱き締めた時にそう誓ったのだ。


 呪術の残酷さには吐き気や目眩がするが、それを乗り越えればネクセラリアと生きていけると言うなら乗り越えてみせよう――そう、思ったのだ。


 周囲の冷めた視線も苦言もからかいもネクセラリアと共にいられるならどれだけでも耐えられた。しかしネクセラリアはそれらに耐えられる程強い心を持っていなかった。

 どれだけ励ましても元気づけてみても彼女の私に対する愛は周囲の冷たさや敵意や悪意にいとも簡単に引き裂かれ、それと同時に私の幸せは崩れていった。


 そして――ネクセラリアは最悪の手段を取った。自分の負の感情を消すばかりか、私の感情を書き換えるようにあの青の公爵に願い出たのだ。


 青の公爵が館を訪れネクセラリアと2人きりで話す事など到底許す事が出来ず、応接間の近くで盗聴の魔法を使い二人の会話が聞こえてきた瞬間、紺碧の大蛇に捕らわれた。


 盗聴の魔法が発動したまま残酷な会話が聞こえてきて、最後に私はネクセラリアの前に引きずり出された。


 彼女は私が聞いて惹かれた悲しい歌声はウィスタリア様のものだと言い残し、そして――私の感情は書き換えられた。


 自分の心に他人が入り込み心を弄られた感覚は痛いとか気持ち悪いという言葉では表せられない位におぞましいものだった。



 「あまり恐怖心を植え付けて精神崩壊されてもウィスタリアが困るでしょうからこの程度にしておきますが……二度と私に対して敵意など抱かないでくださいね?」


 そう言って青の公爵が去った後、私は気を失い、その間にネクセラリアの負の感情が消され――再会した時、私の心には彼女に対する熱も想いも消え失せていた。

 

 負の感情が消えた彼女は戸惑い嘆く私に向かって「どうして泣いているの?」と笑った。

 自分勝手に私の心まで書き換えてしまった小悪魔に嫌悪感と怒りすら抱いた。そんな自分にもどうしようもない嫌悪感を抱く。


 理性と感情が激しくぶつかり合い、部屋から出る事すら出来なくなった私にウィスタリア様は会いに来た。

 込み上げてくる愛しさと、その愛しさを抱く相手が自分が避けていた相手という状況に私の頭は本当にどうにかなってしまいそうだった。


 挙げ句ウィスタリア様は散々自分の想いを虐げていた私に対し、恨みの言葉を吐き連ねてくる。頭では聞き流すその言葉が心にどうしようも無く響いた。


 呻いて拳を床に叩きつける事しか出来ない私をウィスタリア様は『一生私にそうしてなさいな』と嘲笑い――翌々日、ウィルフレド様が亡くなられると同時に女侯爵になった。


 館に戻ってきたウィスタリア様はまず館の従者達に呪術付きの契約書にサインさせた。

 違反すれば呪いがかかる契約書――その内容は私がネクセラリアを想っていた事及び感情操作された事を誰にも口外しない事。


 感情操作された人間を夫にするなど周りからどう噂されるか分からないから口止めを徹底しているのだろう。そして誰もがウィスタリア様に同情してサインしたらしい。既に話してしまった者には話した相手にもサインさせた。


 その後、ウィスタリア様はウィルフレド様の葬儀に集まった貴族達に『私がいなければマリアライト領は駄目になってしまう。公爵からそう言われたから戻ってきたのよ』と宣言した。そんな風に言えば反対する貴族はいない。反論すればその貴族が悪しき事を考えていたという事になるからだ。


 かつてウィスタリア様がこの館を去った日――私がネクセラリア様を愛していたのは周知の事実となり、様々な理由で皆私から遠ざかるようになっていた。

 マロウ伯だけは引き継ぎの関係で深い親交があった事や私を突き放す事は不利益と判断したのか、実際に罵られる事はなかった。

 ただ私を見据える視線は誰より冷めた物であった。


 しかし私がヴィクトール様に感情操作されて以降、皆の視線は嫌悪から哀れみに変わってきているのが感じ取れた。しかし嫌悪も哀れみも私にとっては酷く不愉快なものでしか無かった。


 感情を操作されたとは言え、私の心は公爵に対する恐怖心と愛情の対象が変わっただけで、その他の感情はそのまま――それが尚更気持ち悪かった。


 こんないたたまれない気持ちで日々を過ごす位なら、いっそ彼女に愛だけを囁く生きた人形になれたらどれだけ良かっただろうか、と自嘲しながら日常の業務をこなす。


 そしてウィルフレド様の喪があけた翌日、そのマロウ伯からウィスタリア様と私の結婚式の日取りが決まった事を教えられた。爵位継承のパーティーも兼ねて開かれるらしい。しかし私はパーティーには出るなと言われた。


「ウィスタリア様は口には出さないが君がまた別の女性と恋に落ちないか不安なのだ。今節付でこの館にいる女性従者達も皆解雇される事が決まっている。これ以上あの方を傷付けるような真似をしないようにな」


 パーティーに参加させないだけなら分かるが十数人もいる女性従者の解雇とは――流石にそこまでされると恐ろしくなり、彼女の執務室に行って問いかけるとウィスタリア様は乾いた笑みを浮かべた。


「あら……全員に再雇用先を手配して退職金もそれなりに足して渡したのにそうやって貴方に泣きつく女がいたのね。解雇して正解だったわね」

「誰も泣きついてきてなどいません。マロウ伯が今朝私と貴方の式の日取りと共に教えてくれたのです」


 冷めた目線で私を見据えた後、勝ち誇ったような笑みを向けられる。


「大丈夫よ、ちゃんと男の従者を雇うから。ああ、安心しなさいな。私は貴方と違って倫理に反するような事はしないわ。もし誰かに恋をした時はちゃんと貴方と離婚してから事を進めるし、その時はあの方に頼んで貴方の感情を元に戻してもらうから安心しなさい」

「私は、貴方と離れたくは……」


 望む所だと頭では思っているのに、ウィスタリア様と離れなければならない状況になると思うと嫌な汗が吹き出て、声が勝手に縋るような言葉を紡ぎだす。


「フレンヴェール……きっと貴方は元に戻ったら逃げるように私から離れていくわ。私は純粋に私を愛してくれる人と腕を組んで、笑顔でそれを見送ってあげる。まあ私を愛せる人間なんてそうそう見つからないでしょうから、気長に待つ事になるだろうけど……」


 私を抉る言葉の裏に彼女の悲哀が見える。本当にこの方は感情を表情に出すのも隠すのも下手だ。本人は隠しているつもりなのだろうが負の感情ばかり表に出る。


 この方を愛そうとする心がそれに気づかせて、この方を愛したくない理性を締め付ける。


「……私が、います……」

「ふふ、笑わせないで。貴方が愛しているのはネクセラリアでしょう……?」


 その口元を歪めて微笑むウィスタリア様の刺すように真っ直ぐな視線にも悲哀が込められていた。


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