第39話 選ばれなかった紫色の侯爵令嬢


(痛い……)


 目を覚ますとすぐに体の内から外からズキズキとした痛みが襲ってくる。それでも事の最中よりはまだ大分マシな痛みである事に安堵する。


 『狂情の呪い』――相手の理性を奪い強引に発情させる呪術は『対象を優しく扱え』という細かな操作は出来ない。感情も理性も吹き飛ばしてただ本能のままに相手を貪る、既成事実を作るの為の呪い。


 情事に使われる呪いの中には特定の相手との情事には特別な快感を与え、その相手以外との交配では激痛を伴わせる『番の呪い』もあるけれど、そちらはどうしても相手の意識が残る。例え酷く虚しい初夜になろうとも『狂情の呪い』も使うしかなかった。


 下腹部に手を当ててみても命が宿った実感は全く沸かない。けれど魔法を使おうと手元に魔力を集中させようとしても魔力が全く集まらない事で実感が湧く。

 受胎魔法は成功したようだ。


(……この子を産んで、3年位置いてから2人目を作ればいいわ……それにしても色々痛すぎるわ……3年後に備えて色々対策はしておいた方が良いわね……)


 予めベッド脇のテーブルに用意しておいた薬缶を手に取り、痛みを感じる場所に塗りつけていく。痛みが少しずつ軽くなっていく中、背後で何かが動くのを感じた。


「どうして……」


 フレンの声が聞こえて振り返ると、フレンは全裸で身を起こし、涙を流しながらこちらを見据えている。術の制御と痛みを堪えるのに必死で最中に体格を確認する余裕はなかったけれど流石は騎士。均整の取れた良い体をしているわ。


 状況を察したのだろう。ハラハラと涙を流す様は酷く哀れだった。だけど何故そんな目で見られないとならないのかという苛立ちも覚える。


「……どうしても何も初夜の際は呪いを使ってほしいって言ったのは貴方じゃない。記憶も消してほしいって言ってた事忘れたの?」


 貴方の為にわざわざ希少生物であるヒールスライムまで取り寄せたのに何故被害者ぶられなければならないのかしら――泣きたいのはこっちの方よ。


「今の私が貴方を愛していると知っていてなお、そんな事を仰るのですか……」

「ええ、貴方の愛を信じてもし貴方に情事の最中に『ネクセラリア』って呟かれたら、きっと私の心は壊れるわ。私はマリアライトの長としてこの心を絶対に壊す訳にはいかないのよ」


 まあ、本能だけになってもその名を叫ばれたらもう諦めるしか無かったけれど――ただただ獣のように性を貪り尽くすフレンから想いも言葉も何も零れ落ちなかったのは幸いだったのかもしれない。最中も今も痛いけれど、肉体が痛いだけでしかない。


「申し訳、ありません……」


 掠れて空に消えてしまいそうなフレンヴェールの謝罪に応えるつもりはなく薬缶を閉める。


「薬を塗っていらっしゃったのですか……!? 貸してください、背中にも何箇所も傷が……!!」

「結構よ。呪術を上手く調整できなかった私の自業自得だから貴方が心配する事じゃないわ」

「ですが、化膿して痕になってしまうかも知れません……! 私が傷つけてしまったのですから塗らせてください。せめて浄化の魔法だけでも……!」


 縋るような声をだす割には私から薬缶を奪おうとしない。振り向かずに無視していると微かにすすり泣くような声が聞こえてくる。


「ウィスタリア……そこまで私の事がお嫌いであれば……いっそ貴方の手で私を殺してください……! 貴方が自分の手を汚すのが嫌なら私に一言『死ね』と命令してくだされば、私は……!!」


 フレンのあまりに自分勝手な物言いに乾いた笑いが漏れる。あの方の魔法で私を愛するように仕向けられてるくせに私を傷付ける癖は変わらないのね。貴方らしいと言えば貴方らしいけれど――ネクセラリアといいフレンといい、どうして――私の気持ちを考えてくれないのかしら?


 何故私が貴方と結婚したのかも、今こうして貴方と子作りしたのかも分かってくれようとしないのかしら?


 この館に戻った時にマロウ伯からは今からでも他の男性を、と言われたけれどそんな気にはなれなかった。私にはもうフレン以外の選択肢がなかった。


 他の男も嫌、感情を戻す事も嫌――私の心の隅に我儘な私がいる。我儘な私はフレンが自分の方を向いてくれている事に喜んでいる。それが偽物の愛と分かっていながらそれでも良いという、哀れな私がいる。


 私はそんな私まで見捨てられなかったからフレンと結婚し、子どもを作った。その我儘で哀れな私の心を、この男はまだ踏み躙ろうとしている。


「……貴方、結婚して早々私を未亡人にする気? 妊娠した直後に夫が館で自殺するなんてマリアライト家の致命的な恥になるでしょう? 本当に愛する人に捨てられた挙げ句愛を捻じ曲げられて可哀想な貴方、それに同情したのと世間体の事も考えて結婚してあげた私……もう、そういう関係でいいじゃない」

「それでは貴方が幸せにならない……!!」


 フレンから紡がれた私の幸せを願う言葉に激しい嫌悪感を感じる。


「幸せ……!? 散々私の幸せを踏みにじっておいて今更どの口が言うの!? 私は貴方が望んだ通りに記憶消してあげただけじゃない!! 貴方が今味わってる地獄なんて貴方が私にくれた地獄よりよっぽどマシじゃない……!!」


 込み上げてくる怒りにフレンが呆然としている。それでも私の怒りは止まらない。


「私の歌声がどうこう言ってたけれど、それなら何故最初から私に気づいてくれなかったの!? ネクセラリアを想いながら私を傷つけ続けてきた貴方が今更私の幸せを願わないで!! 誤解なんてしなくても貴方はきっとネクセラリアを愛したわよ!!」


 仮に本当にその時の――悲哀が思いきり表に出てしまっていた下手くそな私の歌にフレンが惹かれたとしても、誤解が無かったとしても私が選ばれていたとは限らない。

 だって、フレンが愛したのは儚く美しく可愛らしいネクセラリアだから。


「それに……感情を操作されて私を愛するようになった貴方が都合よく過去の想い出を書き換えてしまってる可能性だってある! 誤解が本当に誤解だったのか、もう貴方自身も分からなくなってるのかもしれない!!」

「それは違う!! あの時私が惹かれたのは間違いなく貴方の」

「いいえフレン……! 貴方は本当は私の事、大嫌いだったのよ……! 私がいなければネクセラリアと一緒になれたかもしれないのに……本当にお邪魔虫でごめんなさいねぇ!?」


 私の威圧にフレンが唖然として、蹲って嗚咽を漏らす。その姿にまたどうしようもない哀愁を感じる。


(……ちょっと、言い過ぎたかしら?)


 じわじわと滲み出る同情心につくづく自分は甘いなと思わされる。


「……ねえフレン。私はもう裏切られたくないの。だから貴方は一生そのままでいるしかないのよ。でも大丈夫よ、私が呪術師として生きる以上、お父様と同じ位の年で死ぬから。貴方はそれまで私に侘び続け、私が死んだ後はこの子とこの家に尽くして天寿を全うするだけでいい……もう貴方にはそれ以上の事は望まないから、顔を上げなさいな」

「……分かりました」


 上半身を起こしたフレンは飼い主に捨てられかけている犬のような目をしている。そして下腹部に私の魔力の色の淫紋が浮かんでいるのが見えた。


「ああそうだ……妊娠する前に貴方には私以外契れない呪いもかけさせてもらったわ。私以外と性交するとお互いに激痛走るらしいから気をつけてね」


 自分の色を他人の体に刻みつけるなんて何だか背徳的だわ。相手が本当は別の相手を想っているのだから尚更ゾクゾクする。

 まさか私にそういう癖があるなんて――ああそうだ、フレンはもう一生私に逆らえないのだから、この際もうしたいようにさせてもらいましょう。

 

「貴方は今後一切この館から出さないから。客人に女が来ても一切話すのを禁止するわ。アザリアとも、ネクセラリアとも……そうね、私が女の客人を相手にする時は隣室でハープを弾いてなさいな。音が発生してる位置に少しでも変化があったら覗いてると思う事にするから」

「……分かりました。ウィスタリア……本当に、本当に申し訳ありませんでした……」


 蹲るフレンヴェールの逞しい背中を見て『惚れたら負け』という言葉が久しぶりの脳裏をよぎる。

 確かにそうね。本当に恋愛は惚れた方が負けの世界だわ。その敗者の哀れな様を見て生み出される感情は確かに愛おしい。


 不思議ね――愛を乞う立場選ばれる側から愛を乞われる立場選ぶ側になった途端、気が軽くなる。

 結局私は誰からも選ばれなかった。だけどそれは私は選ぶ側の人間だったから、というだけの話。


 選ぶ側の人間には愛嬌も愛想も必要ない――今ならフレンが私には私の武器があると言っていた意味も理解できる。あの時真正面からそう言ってきた男が私に心からひれ伏している哀れな様が見るに堪えない。


「……本当に申し訳ないと思うのならもう泣くのをお止めなさい、見苦しい……私達は夫婦としては終わっているのだから、せめてこの子や次に産まれてくる子にとっては良い父親でありなさい」


 「はい」と小さく呻く姿が哀れで、張り合いもなくて――でもその姿につまらないと思う自分と、安心する自分がいた。



 その日からフレンは私に一切反抗しなくなった。まるでずっとそうだったかのように従順になり、張り合いやいじりがいが無くなってしまってつまらない。

 反抗する貴方は確かに、私への怒りに満ち溢れていたのに――それが貴方の本当の意識だと感じられたのに。


 完全に神の魔法に飲まれてしまった彼に対して虐めたいという気持ちも張り合いたいという気持ちも失せ、色褪せた世界でただただ公務をこなす日々が続く。


 民が、家族が、主が――皆が私に幸せであってほしいと願っている。それは少し嬉しくて――とても窮屈だ。私達はこれをネクセラリアに課していたのだ。


 呪いも祝福も紙一重。他人の想いと願いが強ければ強いほど、多ければ多いほど当人の心は締め付けられていく。


(私は貴方にとって本当に駄目な姉だったわね、ネクセラリア……)


 彼女の消えてしまった負の心に詫びる。その感情はけしていらないものではなかった。

 今なら分かる。本当に彼女の幸せを願うなら、何より彼女の負の感情に寄り添うべきだったのだと。


 そして私も――負の心を消せば幸せになれるのでしょう。だけど民を統べる私がその手段を取る訳にはいかない。


 私はこのマリアライト領を統治する侯爵。愛すべき民が抱える気持ちが理解できない領主になる訳にはいかない。だから祝福の呪いに負ける訳にはいかない。この冷たく美しい世界から逃げる訳にもいかない――



「……ウィスタリア? 大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが?」



 フレンの声に現実に引き戻される。妊娠してから半節して徐々に私の体に異変が起き始めた。いわゆるつわりという物は地味に私の体を襲い、酷い倦怠感を伴わせる。


「心配ないわ……少し気分が悪いだけよ」


 心配そうに私を見つめるフレンヴェールから視線をそらして会話したくない意志を示してもフレンヴェールは言葉を続ける。


「……無理はよくありません。少し横になった方が宜しいかと。本日の公務は私に任せてもうお休みください。無理をしては子が流れてしまいます」

「……本当の貴方は私との子なんて流れてほしいと思っているのでしょうね」


 フレンの優しさにイラッとしてそう返すと、彼は物凄く悲しそうな目で私を見つめられる。その目に微かに心が傷んだ瞬間フレンは頭を下げた。


「ウィスタリア……私は真実に気づかないままネクセラリア様を愛し、長い間貴方を傷つけてきた。それに関して弁解するつもりは一切ありません。貴方が私の愛を信じられないのは当然ですし、私の想いはもう永遠に貴方には伝わらないのでしょう。私は貴方にそれだけの事をしてしまいました……本当に申し訳ありません」


 申し訳ありません――そうやって詫びの言葉を何度言われただろう。聞きたかった言葉なのは間違いないけれど、事ある事に何度も何度も言われると流石にウンザリしてくる。

 私が死ぬまで侘び続けなさいと言ったのは確かに私だけど、もういい――と言おうとした時、フレンの言葉が重なる。



「ですが……親の想いも声もお腹の子に届くと言われています。どうかそんな悲しい事を言わず今は無事にその子を産む事だけを考えてください。貴方のお腹にいる子は私の子でもあるのですから」


 その声には優しさの他に悲しみと怒りが籠もっていた。だけど不思議と苛立つ事はなく、逆に心が温かい何かに満たされて、言い返そうとした感情も消える。


 フレンヴェールの言葉に従って自室に戻って横になると、疲れきっていたらしい体は睡魔に負けてすぐに夢の世界に誘われた。



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