第32話 幸せを願う家族達・2


義姉上方あねうえがた……私はネクセラリアと結婚する事にしました。ウィスタリア義姉上にはマリアライト領に戻って侯爵となり、マリアライト領を支えて頂きたい」

「はっ……!?」


 驚きの声を上げたのはアザリアだった。だけど私の心は――こうなる事を心の何処かで分かっていたかのように静かだった。


「やはり私のような女は同じ家にいるだけでは駄目なのでしょうね……」


 愛や性欲がないからといって迎え入れる女がどんな女でもいい、というはずがない。

 ましてこの館に来てから殆ど寝てばかりだった私は見限られても仕方がない。分かっているのに私の口から紡がれる声は暗い。


「そういう訳ではありませんよ。ネクセラリアやアスター卿に侯爵になられたらあの領は混乱と衰退の一途を辿るのが目に見えています。ウィルフレド卿に死が迫っている今、あの地方を治められる人間は彼から全てを教え込まれ、上に立つ者としての適性を持っている貴方しかいない……貴方には私の妻よりマリアライト侯爵となって頂きたいからネクセラリアを受け入れるに過ぎません」

「ですが……以前結婚した後もマリアライト領に残り侯爵になっても良い、と仰られていましたよね?」


 公爵相手に矛盾点を突くのは抵抗があったけれど聞かない訳にもいかず追求すると、ヴィクトール様は言うかどうか迷ったかのように視線を逸らした後、また私を見据えた。


「……義姉上、ネクセラリアは貴方やアスター卿の手には負えません。彼女はずっと幸せに浸っていました。だからこそ自分が何より可愛く、僅かなストレスですぐに追い詰められてしまうような人間になってしまっていたのです」


 だから自分が守ってやらないと駄目、と言いたいのだろうか――?


 私の能力とネクセラリアの能力を秤にかけた結果私が勝っているから、ネクセラリアが弱く劣っているから私が選ばれなかった――自己鍛錬に励んでその能力を認められたからこそ私は誰からも選ばれない――なんて皮肉な話だろう?


 がむしゃらに頑張った私は一人で馬車馬のように働き、程々に頑張った周りの女は男に囲われて幸せを享受しながら、私を羨望の目で見つめ褒め称える。そしてネクセラリアは私をここから追い出して、ここの温かな世界に包まれて幸せに暮らすのだ。


 自分だけが不遇な状況に置かれている事に久々に怒りが込み上がってくるのを感じ――


「丁度彼女もそんな自分に嫌気が差していたようで、感情を消して欲しいと頼まれましてね。望み通り彼女の中にある負の感情を消去させて頂きました」

「……え?」


 再び室内の空気が凍りつく。


 感情や記憶を一時的に封印する呪術はお父様から教えられた媒体呪術にもあるけれど、感情そのものを消すなんて術は聞いた事がない。

 感情が消えた人間などもはや、人間とは呼べないのではないだろうか?


「感情を消すとは、一体どうやって……ネクセラリアに何をしたのですか!?」


 どんな酷い裏切りを受けたとして同じ屋根の下で暮らしてきた妹の心を壊されては冷静ではいられない。ヴィクトール様に詰め寄ると彼は困ったように苦笑した。


「口頭で説明するよりその目で見て頂いた方が早いです。貴方を送り届けた後ネクセラリアを回収する予定でしたので、このままマリアライト邸までお送りしましょう」

「わ……私もまいります!」


 アザリアの言葉にヴィクトール様は苦笑いする。笑っているけれど乗り気ではないのが一目で分かるその表情から低い声が紡がれる。


「アザリア義姉上……色神での空の長旅は多少体に負担がかかります。ある程度保護の魔法をかける事はできますが胎児の命は保証できません。今、貴方も貴方のお腹の中にいる胎児の感情も苦しみに満ちている……ウィスタリア義姉上も準備が必要でしょうし、先に貴方をシルバー邸までお送りしましょう。そして治癒師の元で安静に過ごされた方が良い」


 ヴィクトール様の言葉に背筋が凍る。アザリアはそんな辛い状況で私に会いに来たというの? アザリアを見ると不安そうに私を見ている。何でそこまで私の事を心配するの? 今は何より自分と子どもの事を考えなければならない時期でしょうに。


(それだけ私が放っておけないほど弱々しく見えているという事……?)


 ――こんな事では駄目だわ。私は人に心配かけるような人間ではいけないのよ。


「アザリア……大丈夫よ。貴方は自分と自分の子供の事だけ考えなさい」

「お姉様……本当に大丈夫なのですか……?」


 大丈夫かと言われたら大丈夫じゃないわよ。何が起きてるのか分からないのが物凄く恐いわよ。だけど――そんな事を言っているようでは駄目なのよ、ウィスタリア。


 私はマリアライト侯爵家の跡継ぎとして育てられた娘なのだから。もう十分休んだでしょう?


「……大丈夫よ」


 そう、どんな事が起きようとも冷静でいなさい、ウィスタリア。もう逃げる事は許されないのよ。



 ヴィクトール様がアザリアをシルバー邸まで送っている間に身支度を整えていると「あらあら」とオフェリアが簡素なメイクを施してくれた。


「貴方がいなくなるのは残念だわ」


 その言葉はやはり心に染みた。ここはとても優しい世界――だけど私の居場所じゃなかった。私の居場所はあの美しい音楽と平和に包まれた裏にある厳しい世界。


 戻ってきたヴィクトール様と共に、紺碧の大蛇に乗る。

 ラリマー邸に来た時は快晴の空だったけれど今は私が抑えている不安を表したかのような濃灰の空。そこから激しい雨が降り出すのにそう時間はかからなかった。


 ヴィクトール様が作り出した青色の防御壁によって雨風から守られつつ、青白い星が夜空を照らし出した頃――マリアライト邸に辿り着いた。



 不安と緊張に包まれながら1つ深呼吸し、館に足を踏み入れる。


「ウィスタリア様……!!」


 私が帰ってきたと報告を受けたマロウ伯が必死に走ってくる。長年お父様を支えフレンヴェールに色々引き継いでくれた年配の従者は私がここを出る時よりずっとやつれているように見える。


「戻ってきてくれてありがとうございます……この状況はもう私だけではどうしようもありませんでしたので……!!」


 ここに来る途中、ヴィクトール様には何も聞けなかった。ヴィクトール様も何も話さなかった。息を切らせて縋るように私を見据えるマロウ伯の眼差しに最悪の事態を想定してしまう。


 その事態を裏付けるように通路の向こうから笑顔のネクセラリアが駆け寄ってきた。


「姉様……!! ああ、良かった……戻ってきてくれたのですね!!」


 それは本当に私の帰還を喜んでいる笑顔。何だ、想像したよりずっと普通の――


「ああ、まずはお父様にお会いになって! もう亡くなられているかも知れませんけれど、きっとお姉様が戻って来てくれたと知れば喜んでくれるはずです!」


 全身に冷水を浴びせかけられたかのように体中が冷えていく。その台詞を本当に嬉しそうに言う妹が得体の知れない化け物に変わったような絶望の感覚に襲われる。


 見続けるのも怖く感じてマロウ伯に視線を移すと、彼もまた視線を何処へやっていいか分からないかのようにその目先を下へ落とした。


 そんなマロウ伯に何か言わせるのも酷な気がして後ろを振り返ると、ヴィクトール様がどうです?と言わんばかりに微笑んでいる。


「彼女は僅かな苦痛も耐えられない……だから苦痛や悲しみや苦しみと言った感情を消しました。もうどんな不幸も彼女は感じない。父親が死んでもその悲しみが彼女を襲う事はなく、彼女は常に幸せでいられます」


 文字通り心無い言葉に反射的に魔力が吹き上がる。眼の前にいるのはマリアライト家が仕えるべき主――今私が攻撃した所で、返り討ちにあって殺されるのがオチだと分かってる。それが分かっていても抑える事が出来なかった。


「義姉上……私はその感情を自分に向けられるのが好きではありません。抑えて頂けませんか?」

「お姉様、やめて! これは私が望んだ事なのです……! ヴィクトール様は神の力を使って私を救ってくれただけ! お姉様の仰る通りヴィクトール様は素晴らしい方だったわ。私の嫌な気持ちを消してくれた上にアスター卿が私に向ける愛をそのままお姉様に向けるようにもしてくれたの……!!」


 何を――何を言っているのだろう、この子は。ただでさえ今の状態に心が破裂せんばかりに軋みかかっているのになおも恐ろしい言葉を笑顔で突きつけてくる。


 やめて、と声に出す前にネクセラリアはその事実で私の心を抉ってきた。


「お姉様はアスター卿が好きなのでしょう? だから私、ヴィクトール様にアスター卿の私に抱く愛をお姉様に向けるようお願いしたの! 誤解もちゃんと解いたし、これで皆幸せ! 幸せな私達を見てお父様も幸せ……これで円満解決ね!」


 その瞬間、あまりに自分勝手な物言いをするネクセラリアの頬を反射的に叩いていた。しまった――と心の隅に痛みを覚えたもののネクセラリアはきょとんとしている。


「お姉様、痛いわ……どうして怒っているの?」


 赤くなりだした頬に手を当てて微笑む妹がこれまで体験してきた恐怖の中で何より恐ろしかった。



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