第29話 末妹が抱えるもの・5(※ネクセラリア視点)


 アザリア姉様の結婚式と懐妊パーティーが終わって、マリアライト領に戻る前にヴィクトール様に<秘密の魔法を使って欲しい>というお手紙を出して3日後――ヴィクトール様がマリアライト邸に来てくれた。


 館に戻るなりお倒れになって寝たきりになってしまったお父様を無理に起こすかどうかマロウ伯とフレンが相談している所に『私がヴィクトール様と2人きりでお話したい事があるからお呼びしたの』と言うと2人とも驚いた顔をした。


 『お父様が寝込んでウィスタリア姉様もいない今、この館の責任者は私のはずだ』と続けると、渋るフレンをマロウ伯がいさめて私達を応接間に通してくれた。


 メイドにハーブティーを淹れさせた後、退室させて2人きりになる。ハーブティーに少し口をつけた後、向かいのソファに座るヴィクトール様に私の心を打ち明けた。


 ウィスタリア姉様を傷つけてしまった事。フレンを姉様に返したい事。また祝歌を歌えるようになりたいのに心の中のモヤモヤが消えてくれなくて歌えない事。そしてアザリア姉様の懐妊パーティーでヴィクトール様が秘密の魔法を使える事を知った事――


 ヴィクトール様は静かに私の言葉を聞いてくれた。フレンはこの方を忌み嫌っていたけれど、こうしてちゃんと話してみると違和感こそあるけれどそんなに悪い印象はない。

 今日はあの蛇が首に垂れ下がってないというのもあるかもしれない。きっと私に気を使ってくれたのだ。


 この方はちゃんと私の話を聞いてくれる、受け止めてくれる気がする――そんな気がして心の内をすべて曝け出す。


「……私は恐いのです。姉を壊してしまった事が。今幸せじゃない事が。幸せじゃない私は祝歌も歌えない。そんな私には価値がない……今はそれがどうしようもなく辛くて、恐いのです」

「……なるほど。普段幸せに満ち足りている分、不幸に対する耐性が全く無いのですね。興味深い」


 ヴィクトール様の言葉は不思議と自分の心に沁みた。


 私、自分の心が嫌。悲しみとか怒りとか苦しみを感じる度にモヤモヤの生まれるこの心が嫌。何もかも自分の思い通りにならないと嫌な自分が嫌。


 皆が私を幸せにしようとしてくれる世界に慣れて、そんな世界じゃなくなった位で生きられない位辛いと思う自分が嫌。モヤモヤしたくないのにモヤモヤする自分が嫌。


 私はこのモヤモヤを解消する方法を好きな物や欲しい物を手に入れたり、フレンに話したりする方法しか知らなかった。それで誤魔化せないモヤモヤにこれまで遭遇した事もなかった。


 だから自分が追い詰められている今――心が凄く苦しいんだわ。


「……それで、私に秘密の魔法を使ってほしいと?」


 本題を出され、自然と俯いてしまっていた顔が上がる。


「はい。ヴィクトール様は嫌な感情を消せる魔法が使えるとお聞きしました。どうか、私から嫉妬や悲しみと言った私を困らせる感情を消してほしいのです」

「……感情操作の力を誰から?」

「え、あ……アザリア姉様の懐妊パーティで出会った、とても綺麗な緑色の髪と目の男性に、『ヴィクトール卿なら貴方の願いを叶えられる』と言われて……お名前は聞きそびれてしまいました。ごめんなさい、その人は私が酷く落ち込んでいたから秘密の魔法だけど、と教えてくれたのです」


 私の言葉を最後に沈黙が漂う。気を悪くされてしまったのかしら? ドキドキしながらハーブティーに口をつける。


 そういえばヴィクトール様、お茶を出した時に一度口をつけただけでそれから全然飲んでいない。最高級のお茶を用意させたのだけど合わなかったのかしら?

 あれこれ考えている間にヴィクトール卿が1つ、体の力を抜くような息をついた。


「分かりました……貴方自身がそれを望んでいるのなら断る理由はありません。この家に決定的な亀裂を入れてしまったのは私ですしね。貴方は不幸になったのは私の責任でもありますから……しかし、アスター卿の心まで操作してほしいのは何故です? 貴方自身が自分の感情を消し去りたいのは分かりましたが、他人の心まで弄るというのはちょっと……」


 了承された事で私の緊張も抜けていく。ティーカップをソーサーに置いて両膝の上に両手を乗せる。


「……あの方は元々、お姉様に惹かれていたのです。ですが今更それを言ってもアスター卿の心は……だから私を愛する心をそのまま姉様を愛する心に変えてほしいのです。それは本来姉様が受け取るはずだった愛なのですから。私はアスター卿の心をお姉様にお返ししたいのです」


 遠い過去の誤解――そして誤解に気づいても解こうとしなかった私の罪。


「……そういうものなのでしょうか?」

「恋や愛を知らないヴィクトール様には分からないかも知れませんが、そういうものなのです。アスター卿の愛は今までお姉様がずっと欲しくて欲しくてたまらなかったもののはずですから、きっとお姉様は喜びますわ。これはウィスタリア姉様を傷つけてしまった私のせめてものお詫びなのです」


 そう言ってみてもヴィクトール様はあまり気がのらないのか、少し天井を仰いで視点をキョロキョロと移している。

 ああそうだわ、今の話はヴィクトール様には何のメリットもない。ちゃんと『交渉』しなくちゃ。


「もちろんタダでとは申しません……! ウィスタリア姉様とアスター卿と結ばれる為にも私がヴィクトール様に嫁ぎます。ウィスタリア姉様がしっかり領の貴族を統率し、負の気持ちが消えた私が年に一度マリアライト家で祝歌を歌えば、マリアライト領の平和は保たれますわ。それはヴィクトール様にとっても良い事だと思うのです……! 後は、えっと……ウィスタリア姉様も本当に好きな人と結ばれてヴィクトール様に恩ができるし……後は……」


 後は――何だろう? ヴィクトール様って公爵だからマリアライト家よりお金持ちだし、何でも持ってそうだし……ああ、交渉って難しいわ。


「……まあ、いいでしょう。私達の会話を盗み聞きしようとしていた彼には何かしら制裁を与えなくてはと思っていましたので」

「え?」


 ヴィクトール様が部屋の入り口の方を振り向くと突然ドアが開いて紺碧の大蛇に全身固く巻き付かれたフレンが倒れ込んできた。



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