第9話 愛らしい女豹


 背景に小さく可愛らしい花が咲き乱れそうな程眩しくとろけそうなコンカシェルの笑顔を見て、咄嗟にフレンヴェールの方に視線を移す。


 驚いたように目を見開き小さく口を開けて完全に見惚れているフレンヴェールの姿にショックを受けている間にコンカシェルが言葉を続ける。


「そちらにいる方がウィーちゃんの婚約者なの?」

「え、ええ。そうよ。アスター伯爵家のフレンヴェール……」


 そう言うとフレンヴェールもハッとしたように慌てて頭を下げた。


「へぇ……素敵な人ね!」


 そう笑うコンカシェルの眼にゾクリとした。何だろう、一瞬、獣のような眼でフレンヴェールを見たような――


「ウィーちゃんの事、よろしくお願いしますね?フレン様!」

「は、はい。勿論です……」


 照れたように微笑むフレンヴェールの姿に頭の中で激しく警鐘が鳴り響く。


 危険、危険だわ――フレンヴェールが明らかに見惚れていた上にこの数回の言葉の往復で愛称で呼んで、フレンヴェールもそれを受け入れている……!!


 ああ、やはり。この女は傷心の男に鋭い。そしていとも容易く男の中に入り込んでそして恐ろしい速さで侵食し、居着く女豹――そう、女豹なのだ。


 私もフレンヴェールの傷ついた心が癒えた時にフレンって呼べる日を楽しみにしていたのに――獣に、取られた。


 全身に耐え難い嫌悪感が駆け巡り、その嫌悪感は口から零れ落ちる。


「コンカシェル……人の婚約者を愛称で呼ぶのは流石にどうかと思うけど……!?」

「えっ……あ!ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ……!」


 自分でも驚く位低い声――今まで見た事無い位にオドオドしているコンカシェルとの間にヴォルテール卿とモーベット卿が立ちふさがる。どちらも学生時代の時には向けてこなかった厳しい視線を私に向けている。


 その後ろでコンカシェルは金髪の男性に肩を支えられて今にも泣きそうな顔で目を潤ませている。


 『何よ、私が悪いって言うの!?』――と言うには状況が悪すぎる。2人が言葉を紡ぎ出す前にフレンヴェールの手を引いて、速やかにその場を離れた。



「……あんな風に言わなくても良かったと思います」


 ホールからテラスに出た所でフレンヴェールから手を振り払われる。驚いて振り返ればフレンヴェールの表情は少し悲しげに私を――睨んでいた。


「あ……あの子にはハッキリ言わないと伝わらないのよ」

「ウィスタリア様、仮にそうだとしても場所が場所です。しかもヴィクトール様の眼の前でああいう態度を取るなんて、どう思われたか……貴方はネクセラリア様のマナーを叱る前にご自身のそういう態度を改める必要があるのでは?」


 また――確かに、私の普段の物言いは上から目線で棘があるのかもしれない。だけどネクセラリアに冷たくした覚えはない。多少のマナーは覚えてほしいと思っているけれどそこまで厳しくしているつもりもない。


 ナイフやフォークを使う順番、肉の切り分け方、食べ辛いお菓子をこぼさない食べ方……基本中の基本すらお父様が厳しく言わないから私が最低限のマナーを言っているだけなのだけど、何故フレンヴェールにそんなふうに言われないといけないのだろう?


 それとも普段のわたしのネクセラリアへの態度を見て言ってる?それともネクセラリアがフレンヴェールに愚痴っている?


 ただでさえ女豹に心乱されているのに末妹の事まで加わって、感情が酷く乱れていく。


(駄目よ、ウィスタリア……ここでフレンヴェールと言い合えば私の評価は更に下がる。先程の一件だってコンカシェルを崇拝する人間が見ていたら悪印象。ここはコンカシェルのパーティー……私がこれ以上パーティーを乱す訳にはいかないわ……)


「……そうね、気をつけるわ」

「今すぐアルマディン女侯爵に先程の非礼を謝りに行きましょう。あの方は父親を亡くしてまだ間もないのです。とても心細いだろうに友人である貴方に突き放された今、酷く心を痛めているに違いありません」


 無理やりへし折ったプライドの折れ目から更に黒く粘り気のある感情が心いっぱいに渦巻いていく。


 私だって今感情を抑えるのに精一杯なのに、何故貴方はコンカシェルの味方をするのかしらね?

 私は人の婚約者を愛称で呼ぶなと注意しただけなのに、何故突き放したことになっているの?


 そもそも、貴方が、あの子に見惚れたから。あの子が、貴方を愛称で呼んだから――


(……そんな事を言ったらきっと悲しい言葉が返ってくるんでしょうね)

 そして情けない事にそれに耐えられるほど私の精神面は強くはない。


 静かに歯を噛みしめながらホールの方を覗く。少し離れた場所にいる赤紫、青紫、黄色に囲まれて明らかに元気なさげに顔を伏せているコンカシェルに向けてテレパシーを送る。


『コンカシェル……私さっきは嫌な言い方してしまったわね。謝るわ。でも私もフレンヴェールの事は愛称で呼んでいないの。なのに貴方が愛称で呼んだら変な噂になるかもしれないじゃない?』


 私のテレパシーを受け取ったコンカシェルはハッと顔を上げてこちらの方を向く。遠目からではよく分からないけれど――もしかして、泣いてた?


『うん、ウィーちゃんは何も悪くない……!悪いのは私なの、ごめんなさい、ウィーちゃん……!!もう二度とアスター卿の事、愛称で呼ばないから許してくれる……!?』


 フレンヴェールを家名で呼んでいるコンカシェルに安堵する。反省はしているようだ。もし本当に泣いていたのだとしたらこれ以上責めるような言葉を並べるのは不味い。


『ええ……言いそびれたけれど侯爵継承おめでとう。応援しているわ』

 そう、そもそも今日はそれを言う為に来たのだ。その役目はきっちり果たさなくては。


「……和解したわ」


 少し怪訝な目でフレンヴェールは私を見た後、コンカシェルの方に視線を移す。そして嬉しそうな笑顔をこちらに向けて小さく手を振っている彼女にホッとしたようだ。ようやくフレンヴェールの眉間からシワが消える。


「コンカシェル様がこれで納得されているなら構いませんが……テレパシーで和解では夫達からの悪印象は拭えません。また会う機会があった際にはきちんと謝罪を……」


(駄目だわ……今後コンカシェルに会う可能性があるパーティーや会合には絶対にフレンヴェールは連れて行かないようにしないと……)


 私すらまだ愛称で呼べてないフレンヴェールに2、3言で愛称呼びを受け入れてもらえる状態まで踏み込んで、今なおこうして気にかけられている。また油断すれば――奪われる可能性が高い。


 私は警告した。コンカシェルはそれを受け入れた。だけど受け入れてくれたのだからと油断して再び会わせた時、取り返しのつかない事にならない保証はない。


 獣がいる場所に美味しそうな肉を持ち込めば、奪われて食われるのは当たり前。獣に肉を食われて嘆いた所で肉を守りきれなかった自分の弱さを責められるだけ。


 それなら――獣がいる場所にわざわざ肉を持っていかなければいい。


 だけどフレンヴェールは魔術も剣の心得もある魔法騎士だ。公侯爵家の出であれば皇族の護衛もこなせる程腕の立つ伴侶を大きなパーティーや会合に同伴させないとなると不仲を疑われてしまう。


(でも……過去には『私達の身に同時に何かあっては困るから』という理由で伴侶を一切連れて来ない女伯爵や女侯爵の話も聞いた事もある。多少好奇の目に触れられるかもしれないけれど、そこまで悪目立ちするとは思えない。それに……こうでもしないと私の精神が持たない)


 コンカシェルのついでにネクセラリアの事まで持ち出されたのはショックだった。先日の『もう少し言い方を気をつけた方が良い』という優しい助言とは違う。明らかに私にネクセラリアを叱る資格はない、と避難するような言い方だった。


 フレンヴェールは常日頃から私に対して不満を抱いているという事だ。恐らくはネクセラリアも。


(私……フレンヴェールに嫌われてる……?)


 そこまで考えて首を小さく横にふる。


 普段優しい相手に真正面から苦言を呈されたからって、すぐ好きとか嫌いの話に持っていっては駄目よウィスタリア。こんな事ではちゃんとした侯爵にはなれな――と思った所で致命的な失態を犯している事を思い出す。


(そうだ、ヴィクトール様の眼の前であんな振る舞いをしてしまった事を侘びなくては……!)


 直接失礼をしでかした訳では無いけれどフレンヴェールの言う通り見苦しい物を見せてしまったのは間違いない。直属の部下となる私が感情のままに動いてしまった姿を見て落胆されてしまった可能性がある。


 辺りを見回してお父様とヴィクトール様を探すも見当たらない。あちらこちらでマリアライト領の貴族達や面識のある貴族達に挨拶しながら一人厳しい顔をしているお父様を見つけた時にはすでにパーティーは終わりに近づいていた。


 お父様に先程の振る舞いを詫びると『あの方はお前の行動を別段気にされてはいなかったが、今後気をつけるように』とだけ言われた。お父様自身は私の態度をどう思っているのかは聞けなかった。



 心いっぱいに渦巻く不安は、パーティーが終わって宿に戻っても消えなかった。



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