ムーンライティング
深川夏眠
moonlighting
古本とコーヒーの香りは相性がいい。昼間ここにいると、深夜にささくれ立った気分が滑らかにる。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、お邪魔しますマサキさん」
自称多忙で有能なOLミレイさんのお出ましだ。だったら何故、平日の昼下がりにブラブラしているのだろう。外回りからオフィスに戻る前に気分転換……云々、初来店の折、こちらが訊いてもいないのに自己紹介してくれたが、会社や部署の名前もフルネームをどんな漢字で書くのかも、すぐ忘れてしまった。半ば強引に渡された名刺は、夜中にもう一つの仕事上の機密文書を破棄する際、ついウッカリ……の
ほとんどの客は軽い挨拶を交わす程度で、また現れたり二度と来なかったり、それがちょうどいいのだけれども――もちろん、お探しの品をスッと棚から差し出したり、「こんな本が読みたいのでお勧めを」と請われてピンポイントで要望に応えたりして感謝されるとか、今日のコーヒーもとっても美味しかったわ、などと褒められれば大変嬉しいのは間違いないが――彼女だけは、どうにもリズムが噛み合わない。これといった理由はないけれど漠然と苦手な種族なのだった。もしかすると、単に香水が鼻につくだけかもしれないが。
「ねえねえ、あのぉ、海外の小説で、旦那さんが急にいなくなったけどヒョッコリ帰ってきたのって何だったっけ?」
またどこかで聞き齧ってきたな。まあ、待て。もちろん内心とは裏腹な作り笑顔で、
「ゆっくりお寛ぎください。先にコーヒーをお持ちしましょう」
いかにも所在なげにスマートフォンを
余談だが、彼女は以前、
「お待たせしました」
ホーソーン短編集を
「読んでみて違うようだったら、次の候補をお出ししますよ」
彼女はしばし紙面に視線を落として、
「こういうのも二重生活っていうのかな」
「そうですね」
「周りにダブルワークの人が増えてきて、だんだんメインとサブが逆転してくるっていうの。面白くなって、のめり込んじゃう、みたいな」
もう小説の話から離れたな。しかし、平静さを装いつつ、
「あたしもやってみようかな、内職とか。在宅ワーク」
「確かに、スイッチを切り替えることで本業に弾みがつくというか、張り合いが出る場合もあるでしょう」
「ねー。何か手頃なヤツ、見つからないかなぁ」
本は
*
夜は部屋に一人。明かりは点けない。液晶画面の青白い光で充分。カーテンを開け放ち、月影を招いているから。夜はコーヒーを飲まない。エナジードリンクで眠気を吹き飛ばし、神経を研ぎ澄ませるから。味わいや情緒なぞ無用。
私は匿名の皆さま方から物騒な相談を承って助言したり、然るべき人物に取り次いだりして対価を受け取っている。殺人の手口など、書物から得た情報を開陳することもしばしば。金銭欲より驚嘆や賞讃といった心理的な報酬への渇望に駆り立てられるのだと自覚している。
「おや」
見たことのある女性の顔写真。濃く下品な香水の匂いまで漂ってきそうだ。彼女の虚言や人間関係の破壊行為に苦しめられた人が、報復手段を求めている。
「アドバイスを差し上げてもいいですが、少々お高くつきますよ」
と、応じてはみたものの、毒を盛るといったって、今時、指に唾をつけて本のページを捲るヤツなどいないし、せっかくコーヒーを出してもほとんど飲まない客に、一体どんな手が使えるだろう。
「難敵でしょうからね……」
一段落したら風呂に入り、就寝。とっくに日付は変わっている。今日はどの豆をどう配合して淹れようか……そう考えると、心はもう香風話堂に飛んで、古書とコーヒーが奏でる
moonlighting【END】
*2022年3月 書き下ろし。
*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の
無料でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts
ムーンライティング 深川夏眠 @fukagawanatsumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます