第10話 あーあ

 その日もナナは『タイヘン!』と騒いでいた。小松菜が入った菜差しを床に落したのだ。大方おおかた自分で引っ張ったり押したりして、ケージに引っ掛けているだけのものを外したに違いないが、床には水と小松菜が散乱していて、それがナナにはお気に召さないらしい。


 声を聞きつけて、毬が二階から降りて来た。


「どしたの?ナナ」


『タイヘン タイヘン ピュピュピュル タイヘン』


「何言ってんの、ってか、あんた、また自分で落としたんでしょ、せっかく入れたのに食べる前に落としてどうするのよ」


 毬にはナナの行動が見えていた。嘴で小松菜を咥えて揺すったりしたに違いない。カタカタと音が鳴るのが好きなのだ。毬はケージの前で手を腰に当てた。やり直してもまたやるに違いない。


「このまま放っておこうかな、どうせちゃんと食べてくれないんだしぃ」


 口を尖らせてナナに見せつける。するとナナは止まり木から下を向いた。


『アーア』


 毬の尖らせた唇が引っ込む。


「誰に聞いたのよ、それ。お父さん?」


 と言って毬ははっとした。お、お母さんだ、この言い方…。


『アーア アーア』


 きっとお母さん独特の抑揚をお父さんが覚えてて、ナナの前で言ったに違いない。それをナナが覚えたんだ。

ふっと毬の顔が緩んだ。


「ナナ、今頃お母さん、天国でびっくりしてるよ。まさか自分の言い方が今さら小鳥に真似されちゃうなんてね」


『アーア』


「マジであーあだよ。そういう時、本当は、ごめんなさい って言うんだけどね」


 毬は、ケージに手を入れて、菜差しを戻し、濡れた新聞紙を取り換える。しかし毬は思いもしなかった。徹は妻の言い方なんて知らなかったことを。母のあの『あーあ』は子どもである毬の前でしか言わなかったと言うことを。


 ナナはきれいになったケージの中で、ひと際大声で言った。


『アーア』


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