凡人二刀流

緋糸 椎

 平凡なサラリーマンである多田徹平ただ てっぺいの唯一の楽しみは、お気に入りのクラフトビールを片手にテレビの野球の試合を観戦することだった。ただ、最近張り替えたフローリングの床の生々しい匂いが、せっかくのクラフトビールの香りを台無しにしてしまうのが残念でならなかった。

 もっとも、徹平はそのことで愚痴をこぼすようなことはしない。フローリングは妻である千賀子ちかこの意見だった。それに物言いをつけると後々めんどくさいことになる。


「……最近良く見るわね、この人」

 千賀子がさして興味なさそうに言う。

「知らないのか? 大リーガーの○○選手じゃないか。ほら、二刀流で話題になっている……」

「二刀流って、バット二本で打つの?」

 徹平は呆れた。

「あのなあ……投手も野手も両方出来るから二刀流って言うんだよ」

「別に大したことじゃないわ。一人二役こなせばいいだけでしょ」

「一人二役なんて簡単に言うけど、二刀流がやれるのは、ほんの一握りの天才なんだぜ。凡人の二刀流なんて怪我のもとさ」

「私だって家事と仕事の二刀流よ」

 徹平はふんと鼻で笑った。

「一緒にすんなよ」

 と言った瞬間、しまったと思った。

 今この瞬間日本全国の主婦と働く女性たちを敵に回した……しかし気がついた時にはすでに遅し。目の前には鬼の形相が迫っていた。

「……よくわかったわ。あなたって仕事と家事を切り盛りしている私のこと、そんな風に思っていたのね!」

「ご、ごめん、今のは言い間違えた。謝るよ」


 ところが目の前にA3サイズの紙が差し出された。そこにはハッキリと【離婚届】の文字が。

「……冗談だよな!?」

「いいえ。ずっと前から考えていたことなの。もうあなたとの生活には耐えられないわ」

「ちょ、ちょっと待てよ。少し口がすべって失言しただけじゃないか。それを揚げ足取るみたいに……」

 すると千賀子は不気味にフフフと笑いだした。

「な、何がおかしい?」

 千賀子がスマホを差し出した。そこに映し出されていたのは、徹平と……不倫相手の若い女性だった。

「ち、違うんだ。これは……」

「別に怒ってないわよ。私もあなたには冷めてたから。丁度いいタイミングで浮気してくれて、助かった。慰謝料タンマリ請求するからよろしくね」

「おい、待てよ、話し合おう!」

「あなた、自分で言ったわよね。『凡人の二刀流は怪我のもと』って。それじゃ、さようなら」

 千賀子は既に準備していたトランクを引いて出て行った。徹平はその後ろ姿を呆然と見送った。

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