風邪(夜光虫シリーズ)

レント

第1話

 撮影所から出た瞬間、ジャンボは咳と鼻水が止まらなくなった。

確かに今日は、何度かセリフを間違えたりと、調子の悪さを感じる日ではあった。

けれど、仕事スイッチが切れた瞬間これかと、ジャンボはなんとなく自分に呆れる。

なんとかトロリーバスに自分の体を押し込んで、椅子に座って壁にもたれた。


 咳も鼻水もどちらもタチが悪く、水っぽい鼻水がハンカチで拭っても延々とこぼれ、咳は1度出てしまうと収まらず、繰り返し喉を傷つけるように苦しげな呼吸が続いた。

この酷い寒気はもしかしたら熱の予兆なのかもしれない。

まだ額を触ってみてもいつもと変わらず、平熱のように感じた。

しかし、咳と鼻水と一日の疲れと、寒気にまで襲われて、ジャンボはトロリーバスの片隅でただうずくまっていた。


 なんとなくほかの乗客も彼を避けるようにバスの中に立つ。

明らかに酷い風邪をひいているジャンボは、多少の心配と、大半は迷惑そうな視線に囲まれていた。

それを気にかけられる体力さえも失いかけている。

そうこうしているうちに、バスはやっといつもの停留所へと止まった。

バスの運転手までもが彼を心配し「大丈夫か?」なんてつい問いかける。


 「ダメです」とは答えられない。

ジャンボは曖昧に頭を下げてバスをおりた。

いつもの道はかなり暗く、昨日の雨の名残で、いくつも水たまりが残っていた。

それを避けているつもりが何度か足を突っ込んでしまう。

ただでさえ寒くて震えているのに、濡れた足先は不快感と不調を強くした。


 通りの店はもう店終いの時間だ。

よろよろ歩くジャンボに気がつくことも無く、慌ただしくいつものように、店前の片付けを進めていた。

なんとか四合院までたどり着けば、寝台にさえ倒れ込めれば今日は100点だ。

頑張れ、俺。とジャンボは何度も自分の中で繰り返した。

薬を買っていく余裕もない。

そもそも薬局も病院もタクシーを使って向かうような距離だった。


 やっとの思いで頼りない街灯の下を歩き、ジャンボは四合院の門までたどり着く。

あと少しだ。そう思いなんとか気を引き締めた。

門の扉を開いていつもの庭をぬけ、あともう数歩で自宅だ。

ポケットから鍵を取り出そうと思ったが、手の力が弱く上手くいかなかった。


 仕方なく、自宅の扉を叩く。

明かりはついているが、応答はなかった。

二人の防犯意識の高さの現れだろう。今日だけは勘弁してくれ、なんてジャンボはふと笑った。



「俺だよ。ジャンボだ。開けてくれ」



 あまり自分で自分を「ジャンボ」と呼ぶことはないが、今日は非常事態だ。

照れている場合ではない。

声を聞くと扉の向こうはバタバタと足音が走り、扉はすぐに開いた。



「おかえり!」

「鍵失くしたの?」



 チョコとバニラは同時にジャンボを見て、いつものように嬉しそうに笑った。

その顔を見た瞬間、ジャンボは張り詰めた糸が緩むように、意識が遠のく。



「お、おい、ジャンボ!」

「ごめん……風邪……」

「ジャンボ!」



 説明しようとしたが、倒れる体を二人に支えられ、そのままジャンボは眠るように意識を手放してしまった。

二人はジャンボを抱えたまま大慌てだ。

半泣きで体を引きずって、寝台に寝かせて、なにがなんだか分からないまま隣人の家へ急行した。



「なんだ、なんだい!泣いてもいいから説明してくれ!」



 チョコとバニラは大泣きして、説明なんて出来なかった。

それでも一目散に頼れる隣人がいてくれたから、二人はなだめられ、ジャンボの様子を見た隣人が医者を呼び、なんとか夜が過ぎていく。

二人は泣き通しだが、医者は冷静に「風邪ですね」とだけ診断して、適切な薬を置いていった。

隣人はジャンボの肩を揺らして、ぼやけた声を出す彼に薬を飲ませる。


 ジャンボはまたバタリと倒れるように眠った。

熱はすでに高く、隣人は氷枕を用意しながらチョコとバニラもなだめたりして、さらには二人のための食事も作っていった。

なにからなにまで隣人に支えられて、三人はやっと並んで寝台によこたわる。



「あとでなんかお礼しよ……」



 ぐずりながらもチョコが言った。

バニラも泣き疲れて眠そうにしながら頷いた。

ジャンボはずっと、帰ってきてからほとんど寝ている。

ただの風邪だと分かっていても、その姿は二人にとって不安をどこまでも呼び覚まさせた。



「死んだりしないよな……ジャンボ……」

「当たり前だろ!やめろよ……」



 二人は泣き続ける。

ジャンボは、その声も聞こえないほど深く眠っていた。

ずっと深く、遠く、うっすらと賑やかな声に囲まれていた。

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