第2話

「ジャンボー!いつまで寝てんだよ!」



 雑に体を揺らされて、やめろよとか言いながらジャンボは目を覚ます。

見慣れた部屋だ。

賑やかな声は一人の大人の声に従って、ジャンボから離れて整列する。

慌ててジャンボも飛び起きた。

じろりと大人と目が合う。



「寝坊だな、江柏」



 あれ、と思いながらキョロキョロとあたりを見回した。

大人はジャンボに冷たく言い渡す。



「寝坊の罰だ。今日は逆立ちしてろ」

「は、はい」



 思わず答えてしまった。

ジャンボは立ち上がり、いつもの……壁の方に駆け寄り逆立ちをする。

いつもの?となにか、かすかに違和感を感じた。

ここはどこだっけ。


 考えるまでもない。京劇の学校だ。

仲間たちと先生は、逆立ちしたジャンボを置いて、なにかの授業のために別室へ歩いてゆく。

その後ろ姿を見ながら、またぼんやりとジャンボは眠気に瞼を乗っ取られた。


 外はなんだか陽気が暖かい。

しかし、デコピンと共にジャンボは目を覚ます。



「いてぇー!」

「やっと起きたのかよ。お前、器用だな」



 逆立ちしながら寝てたぞ、なんて仲間たちは笑った。

どうやら休憩なのだろう。

ジャンボも逆立ちをやめて彼らの輪の中に加わる。



「今日暖かいな」

「なー!俺も眠い……」

「先生もなんか寝ぼけてたぜ」



 仲間たちは悪い顔で笑う。

ジャンボも一緒になって笑った。

楽しい。いつまでもこんな時間が続くんだ。

そんな声がジャンボを誘惑するように、どこかから響く。



「よぉー、元気にやってるか。ガキども」

「おっちゃん!」



 仲間たちはいっせいに学校の庭に現れた野菜売りの方へ走る。

キュウリだかトマトだかを受け取って、彼らは美味しそうにかぶりつく。

ジャンボも遅れて彼らのあとを追った。

先生が騒ぎに気がついて、室内から野菜売りの方へと駆け寄る。



「いつも相手までしてもらってすみません」

「いえいえ、俺もここにくるのが楽しみでね」



 そんなことを言いながら、いつもの……ように、先生と野菜売りはお金のやり取りをさっさと済ませ、先生は野菜のカゴを抱えて室内へ戻っていく。



「よう、ジャンボ。今日はなんだか大人しいな」



 野菜売りにまでジャンボと呼ばれていたが、そんなのは慣れっこだ。

頭を撫でられ「やめろよー!」なんてジャンボは逃げた。

仲間たちは楽しそうに笑う。



「ずっとこんな日が続けばいいのにな」



 ジャンボはハッとして、声の方を振り向いた。


 しかし、その声の正体は誰だか分からない。みんな満足そうに野菜を食べたり、野菜売りと話したり、とにかく笑っているから。


 なのに、この焦燥感はなんなのだろう。

突然、勝手に口から言葉が転がり落ちた。



「俺、帰らないと」



 ジャンボの言葉に、仲間たちはみんな驚いて振り返る。



「帰るって……どこに?」

「え?……分かんないけど、なんか……」



 ここはとても優しくて幸せで楽しくて、確かにジャンボの家だった。

なのになぜだろう。ジャンボは泣き出してしまった。



「違うんだよ、俺。分かんないんだよ。でも、ここにいたらいけないんだ……」

「なんでだよ……どうしたんだよ、ジャンボ」



 みんな心配そうにジャンボを囲んだ。

その姿に決心は揺らいでしまう。



「でも……でも、俺、ずっとみんなとこうして暮らして」

「そう都合よくはいかないぞ」



 背後から先生の声が聞こえた。

振り返るジャンボを見て、先生はいつもの顔のまま、自分や仲間たちに遠くから声をかける。



「いつまでも子供のままじゃいられないんだ」



 ジャンボは仲間たちや自分の手を見て、先生の言葉の意味を理解した。

みんな大人になっていた。自分も、仲間たちも。



「帰らなきゃ……いけないんですね」

「ああ」



 ジャンボはやっと記憶がいくつか戻ってくる。

仕事のことや、四合院に残した大切な二人の幼い顔が。



「ごめん、みんな。俺は……」

「いいよ。水臭いな。さっさと行ってこいよ」

「ちゃんとお前のこと待ってるから。みんな、お前のこと忘れたりしないからさ」



 ジャンボは言葉が出てこなくなり、その代わりに涙が抑える間もなくこぼれ落ちた。

泣き虫、なんて笑われている。

言い返してやろうとしたが、涙の方が強くて、ジャンボは苦しげに泣き続けた。



「じゃあな」



 先生の声が聞こえる。やっとの思いで「はい」とだけ答えた。

仲間たちもジャンボに手を振った。

ジャンボも振り返した。


 本当はこうやってみんなと別れたかった。


 そんな言葉を遠くに感じながら、ジャンボの意識は薄れていく。

代わりに体の感覚が鮮明になっていった。

今日はいつだっけ……なんてぼんやりと思いながら目を開く。


 とたんに二人の小さな子供に抱きつかれた。

二人は大泣きして、ジャンボにすがりつき、良かったと繰り返し呟いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る