バーゴリラゴリラ

澁澤 初飴

第1話

 都会の片隅、ネオンの洪水がふと途切れる繁華街の外れの、レンガ造りの古めかしいビルの一階。


 そこに、バーゴリラゴリラはあった。


 扉を開ければ、あなたはすぐに店名の由来がわかるだろう。渋いゴリラが、意外なほど繊細な手つきでグラスを磨いているのだから。

 彼が店主だ。厚い胸板、筋骨隆々とした一人前のゴリラが、体に合った白いシャツとカマーベストに身を包み、蝶ネクタイをして、穏やかにグラスの輝きを確かめている。


 店には静かなジャズが流れている。店主の趣味だ。


 席はカウンターとテーブルがひとつ。壁際には観葉植物の鉢がたくさん並べてある。狭くはないが、小さな店だ。ただ、カウンターの奥、店主の背後に並ぶ酒はさすがに様々な顔が揃っている。もちろん温度管理が必要な酒は表には出ていないので、実際の品揃えはこの倍にはなるだろう。


 それでも、店にいる客は多くはない。この店は誰にでも扉を開いてはくれない。


 だから、この扉を開けられたなら、あなたはもうこの店の客になれるのだ。


 扉には開閉の合図をするようなものは何も付いていない。店主は扉が開けば風の流れですぐに気づいてくれる。

 店主が顔を上げ、穏やかに微笑む。

「いらっしゃいませ」

「あの、1人でも、いいですか」

 おずおずとした声で、扉を開けた、多分男が問いかけた。

「どうぞ。こちらの席でよろしいですか」

 店主はカウンターの席を案内した。男は恐る恐る席に着く。


 店主がメニューを男の前に差し出した。男は曖昧に笑った。

「何でもいいです」

 男は小声で予算を告げ、しばらく雰囲気を楽しませてもらいたくて、と言った。

「何でも飲めるんですが、あんまり味はわかりませんし、酔えないんです」

 男はそれでも銀色の半円を器用に開閉してメニューをぱらぱらめくった。

「……ああ、このホワイトレディって、素敵な名前ですね。これいただけますか」

 かしこまりました、と店主は答え、酒を作り始める。


 男はバーにはあまり来たことがないと言った。

「人だった頃はお酒もよく飲んだんですけど、大抵家で晩酌する感じで、あとは居酒屋くらいにしか行ったことがなくて」

 店主がシェイカーを取り出すと、男はおお、と小さく感嘆の声をあげた。

「バーみたいですね」

「バーですから」

 店主は穏やかに微笑み、グラスとシェイカーに氷を入れた。

 酒などをシェイカーに計り入れ、グラスの氷を捨てて軽く水滴を拭き取り、シェイクが始まる。


 店主のシェイクは、この店の名物のひとつだ。客はみんなこれを見たくて訪れている。

 紳士なゴリラが力強くシェイカーを振る。豪快で迫力があるが、決して力任せではない。わかる者が見れば、洗練された美しい動きに気付くだろう。

 男は目を輝かせて店主を見つめた。

 シェイカーはじきに余韻を残して店主の胸元に収まり、すぐに蓋が開けられた。冷えたグラスにシェイカーの中身が注がれる。

 男の目の前にコースターが置かれ、美しいグラスが美しい手付きで供された。


 半透明の白い酒。繊細な、花嫁のベールのような、美しい酒だった。


 男は酒を見つめた。

「……きれいですね」

「どうぞ、冷たいうちに」

 店主が無骨な手のひらをそっと男に向ける。

 男は銀色の半円を開閉して、グラスの細い足を慎重に持った。

 そっと口に近づけて、飲み込む。

 さわやかなレモンの香り。優しげな美しい見た目と違い、アルコールの感じは存外強い。


 まるで、あの人のようだ。


 店主はさっきのパフォーマンスが嘘のように、静かにグラスを確認しながらジャズに耳を傾けている。

 男はグラスのホワイトレディを見つめた。

「今年の春に、結婚するはずだったんです」

 店主は男のひとりごとを聞いているのかいないのか、静かに佇んでいる。

「でも、事故に遭って」

 男は銀色の半円をキコキコと動かした。

「俺はご覧の通り、ロボットになりました」


 男は苦笑いして、両手を広げた。金属のパイプのような腕についているおもちゃのような関節が、何となく役目を果たす。

 手の代わりについているのは指ではなくて、例えば手錠の合わさる部分をはめ込みでなく毛抜きのようにぴったり合わせる形にした、金属が剥き出しの銀色の半円だ。体はよりシンプルな円筒形、何箇所か水平には回るけれども曲がりそうにない形だ。そしていかにも金属を主張する、塗装のない銀色。


「保険に入っていなくて、特約がなくて、でも彼女が俺に生きていてほしいと望んで、こんなになりました。でも」

 ロボットはギコギコと微笑んだ。

「こんなクズ鉄と人間が結婚して何になるんだ。人だった俺は意識不明のところをトレースされて、データとして板か何かに移された。この体には脳どころか肉の一片すら残っちゃいない。今の俺が前と同じなのか、俺にはそれすらわからないんだ。それなのに彼女はそのまま結婚するって言うんだ」


 ロボットはグラスを持ち上げた。店内の少し暗めな照明に、グラスに半分残った液体は美しくほのめいた。

「彼女はきれいなんだ。きれいで、優しくて、俺にはもったいない人だ。人だった時でさえ、そうだったのに」

 ロボットはグラスを一気に傾けた。生き物ならこの短時間でこの量のアルコールを摂取したら体に幾らかでも影響が出るはずだが、銀色の金属では香りも風味も味気なく通り過ぎるだけだ。


 ロボットは人だった時の名残のように、ふうっとため息のような音を立てた。

「だから、別れたんです。別れて彼女がひとりになれば、誰かが寄ってくる。中には俺より優しい、素敵な男性もいるだろう。彼女はまだ若いんだ。いくらでもこれからやりなおせる」


 ロボットは空のグラスを持ち上げ、気付いて、何か強いお酒をください、どうせ何もわからないんです、燃料用のアルコールでもかまいませんと投げやりに笑った。

 ゴリラの店主は穏やかな瞳を少しだけ細めた。

「当店では生憎そういったご注文はお受けしておりません」

 ロボットははっとして、すみませんと謝った。

「失礼なことを言ってすみません。つい、気安くしてしまいました。何だか話し易くて。すみませんでした」


「ホワイトレディは、当店では飲み易くしてありますが、アルコール度数の高いカクテルです。お客様は少し酔いがまわってしまわれたようですね。あちらで少しお休みください」

 店主が長い腕でテーブル席を示す。

「……すみません、酔ってはいません。ご迷惑でしたら帰ります。お勘定を」

「いえ、お休みください。水をお持ちしましょう」

 ロボットは強いて勧められ、仕方なくテーブル席に座った。


 店主がまたシェイカーを振る。見事だ。誰が注文したのだろう。ロボットはテーブル席から店主の手捌きを眺めた。


 ふと気付くと、小さなテーブル席には先客がいた。シダ植物の鉢植えが近過ぎて埋もれて、カウンターにいた時にはわからなかった。

 女性のようだった。酔い潰れてしまったのだろうか、テーブルに突っ伏している。枕にした左手には指輪があった。


 見覚えのある、小さな宝石。


「婚約者に一方的に別れ話をされて、無茶な飲み方をしたんです」

 店主が水のグラスをテーブルに置いた。

「彼女は昔なじみのお客様で、恋人ができてからは何年も来店はなかったのですが。婚約して、その相手が事故に遭ってしまってから、またいらっしゃるようになりました」

 店主は扉を見た。扉は客を選ぶのだという。

「彼に生きてほしいあまりに、彼の意向も確かめないで勝手に生かしてしまったそうで、そのことをとても悩んでいました。彼女の気持ちは変わらないのに、彼は後悔しているようだと。今日はついに彼に決定的な話をされ、もうダメだと思ったようです」


 店主はロボットの前に足の長いグラスを置いた。

「ホワイトレディ?」

「xyzです。彼女が飲み過ぎたカクテルですよ」


 ベースの酒が違うのだそうだ。しかしやはり半透明で白く美しい、彼女に着せたかったウエディングドレスのレースのような酒だった。ロボットはそっとグラスを傾けた。

 レモンが爽やかだが、少し甘い。彼女のキスのように。


「女性を愛することは、重い責任を伴います。ゴリラはたくさんの女性を愛しますから、その分責任は重大です。しかし人のようにひとりだけなら軽いかと言うと、そうではないと思います。女性を守るのはつらい役目だ。しかし愛した人のためなら、全うできると思います」


 店主は思慮深そうな目をぱちりとウインクした。

「私の好きな映画は、男はつらいよです」

「俺も好きです」

 ロボットも笑い、しかしテーブルの彼女を見て嘆息した。

「こんなに飲んで。結婚のことと言い、本当に後のことを考えないんです。俺が来なかったらどうするつもりだったのかな」

 店主はまたカウンターに戻り、涼しい顔をしてグラスを眺めた。

「私が群れを作るなら、優しく迎え入れますね。何しろあなたより昔から知るお客様ですから」

 ロボットは連れて帰りますよ、と苦笑した。


 少し眠ったせいか、彼女は何とか起きた。水を飲ませて、ロボットが支えて立ち上がらせる。

 ロボットは彼女に心変わりを伝えた。彼女は泣いて喜んだ。しかし気分が悪いらしく、しかめっ面だ。もうこの近くに泊まっていくことにした。

 彼女の分も勘定を済ませ、ロボットがふと振り返る。

「この店はあなたの群れなんですか?」

「どうでしょうね。男性も来るし、子供がいない。けれど、気に入っています」

 ゴリラの店主は穏やかに微笑んだ。


「また、扉が開いたら、是非お寄りください」


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