Happy is Born

あばら🦴

Still unhappy

 とある電気のついていない真っ暗な民家の中で、北原きたはら和子かずこという若い女性が立ちながら身体を揺すって腕に抱える赤子を寝かしつけていた。

 和子のいる家は彼女の家では無い。住人が消えた空き家にそのまま侵入して使っている。

 我が子が寝静まったのを確認してからザアザアと降る雨が見える窓に顔を向ける。

 外の景色は雨で霞んでいたが、フェンスの隙間から覗く道路で雨に打たれながら寝転がる死体は見えた。なんとも幸せそうな死に顔だった。


 日本には危険な奇病が大流行した。これにより六ヶ月前に世界から隔離され、日本は消滅を待つだけの見放された土地となっている。

 その奇病とは感情を操る脳内細胞が『幸せ』の感情に置き換わることだ。

 初期段階では少し多幸感が溢れる程度だが、末期段階になると寝転がるだけでも全ての感情が『幸せ』になるため、和子が見たようなが道路の至る所に溢れている。


 その死体から唾液なり血液なりを摂取すれば北原も同じ病気に感染する。もちろん和子の腕の中で眠る赤子も感染が可能だ。

幸子さちこ……。私、もう辛いよ」

 産まれてまだ八ヶ月しか経っていない、何も知らぬまま眠る我が子に気持ちを吐露した

「これからも生きてたってきっと……なんにもない。日本の食べ物が全部無くなるまで生きて、最終的にはの仲間入り……」

 無情な日本に見合わぬ純粋な寝顔をそっと撫でた。

「ごめんね……ごめんね…………」

 和子は膝を抱えて泣きじゃくりたい感情をグッと堪えて我が子の睡眠を妨げる真似はしなかった。


 和子が幸子を産んだのは二十六歳の時。父親は分からなかった。いや、分かっていた。だが和子は彼の本当の家族を邪魔しないために黙っていることにした。

 和子は妊娠が発覚した時に彼から「下ろして欲しい」と言われた。この時になって初めて彼の最低さに呆れた和子は彼ときっぱり別れて、罪の無い我が子を産む決心をしたのだ。


 家庭を持つ男と関係を持った和子。最低な男のはずなのに彼に愛を求めた和子。子供を下ろせと言われてようやく別れる気になった和子。

 そのどれもが愚かな選択なのは彼女自身がよく分かっていた。

 もう愚かな選択はしたくない。そういう思いから自分の身をいくら削ろうとも子供を育てる決心をしたのだ。

 だが結局はこれも『愚かな選択をしたくない』というエゴイズムによった愚かな選択だったのか。今になって和子は分からなくなっていた。


「もう分からないよ、幸子。あなたを幸せにするって誓ったからその名前にしたのに…………。あなたを『幸せ』の病気にして死なせるのが答えなの?」

 当然我が子から答えは帰ってこない。

「やっぱり……それじゃ嫌だよね。最初から産まれてないのと同じ……。だけど……真っ暗な未来で幸子が幸せになるにはこれしか…………」

 ボソボソとつぶやく和子の声でどうやら幸子がやや起きてきたようだ。

「うきゃあ……!うぁあ……!」

「ああっ!ごめん、ごめん」

 慌てて我が子をあやす和子。この瞬間、全力で幸子を想う瞬間だけは世の中の絶望を忘れられた。


 徐々に幸子がぐずりをやめて、一分ほどでようやく眠りについた。そしてその瞬間、頭から離れていた未来への絶望が舞い戻った。

「私もなんで『幸せ』にならないんだろ」

 今度こそ我が子を起こさぬようにそっと声を出す。

 病気が流行って世界から隔離されて六ヶ月。和子はなんだかんだ『幸せ』にならずに過ごしてきた。そうしようと思った事は何度もあった。むしろ毎日のように思ってきた。今日だってそうだ。

 だけれど最終的には思いとどまって、今日と同じ何も無い明日に向かって眠るのだ。


 死ぬのが怖いわけじゃない。むしろ死ぬ事でこの絶望しかない世界から逃れられるのなら死にたい。なんなら普通の世界でも『幸せ』に死ねるのならそれに越したことはないだろう。

「分からない……。私はどうして…………」

 うつろな目をした和子はつい身体の揺すりを止めてしまった。

 すると幸子のまぶたがゆっくりと開き、穢れのない瞳が和子に向けられた。

 自分を産み落とした存在と目を合わせると、幸子は喉を震わせて叫んだ

「おぎゃあああっ!おぎゃあああっ!おぎゃあああっ!」

 ごめん、ごめん、とつぶやきながら和子が必死にあやす。しかしそれでも泣きやもうとしない幸子。

 ザアザアとうるさい程の雨音も耳に入らない。和子は無我夢中で我が子をあやす。


 数分して幸子が泣き疲れてまた眠った。小さな身体に見合わない大声をさっきまで出していたとは思えないほど安らかに眠っていた。

「私はいつまでこうして……あやしてるつもりなんだろう…………」

 誰に向けた訳でもないふとしたつぶやき。

 だがその返答はすぐに和子の脳内に浮かんだ。

「ずっと。ずっとこうしていたい……」

 そうか、と和子はようやく『幸せ』になりたくない無意識的な気持ちを掴めた気がした。


「幸子。あなたと一緒じゃない幸せは……幸せなんて呼べないよ。だから……『幸せ』にしない」

 和子の瞳に涙が浮かんだ。

「エゴだよね。完全に。あなたを産んだのも、あなたををこの世界で育てるのも。でも私は……あなたから離れたくない、ばかなお母さんなんだよ…………」

 雨雲に遮られて光が届かない家の中で、電気の供給が止まって真っ暗になった部屋の中で、和子は幸子の額を見失わないでそっと口付けをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Happy is Born あばら🦴 @boroborou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ