彼女のワンタンスープ

@mist33

ワンタンスープ

生姜の香りに触れる度、思い出さずにいられない出来事がある。


小学校4年生のある日。

定例の“終わりの会”で先生から配られた一枚のわら半紙。そこに書かれた『ワンタンスープ』のタイトルの日記。

作者は。毎朝一緒に登校し、毎夕一緒に帰宅する一番仲の良い由香ちゃんだった。

お世辞にも勉強が得意とは言えず、作文が上手とも言えない由香ちゃんの日記が配られたことにいささか動揺している9歳の私、落ち着け。


私は、作文にはめっぽう自信があった。夏休みの終わりに行われる県の読書感想文のコンクールでは佳作に選ばれて体育館で校長先生から表彰されたこともあるし、個人面談や家庭訪問、通信簿でも作文が上手だと担任の先生からいつも褒められた。

誰かの日記がこんなふうに印刷して配られたことなんて、川俣先生のクラスになってから、ただの一度も無かったのに突然どうした?もしかすると、“悪い例”として配られたのかも知れない。

私以外のみんなも状況が分かっていない。教室はざわめく。配られたそのプリントに急いで目を通そうとする私。この作文は、今、どちらの意味で配られているのか。

困惑からか、なかなか内容が頭に入って来ない9歳の私。

「後ろの席の人、プリントは届きましたか?」

先生が尋ねる。

「はーい」

一番後ろの席の高桑君が返事をしたのが先か、私が作文を読むことを諦めたのが先か。

「今、若月さんの日記をプリントして皆さんにお配りしました。若月さんの日記からは、ワンタンスープを待つワクワクした気持ちがとても素直に伝わってきてとっても感動したので、皆さんにも読んで貰いたくて配りました」


帰り道、由香ちゃんは恥ずかしそうにしていた。だけど、私も嬉しかった。そう、お世辞にも作文が上手とは言えない由香ちゃんの日記がこうして先生に褒められて、クラスのみんなに配られたこと。由香ちゃんの自信になったかもしれない。

なんて、偉そうなことを考えていた9歳の私。


家に帰ると早速、母にプリントを見せた。

由香ちゃんの日記を読み終えた母も、由香ちゃんが先生に褒められたことがとても嬉しそうだったし、そして「本当に由香ちゃんらしい素敵な日記だね。ワンタンスープの香りがしてくる気がする」と言ったのを覚えている。


あれから30年が経つけれど、あの日の由香ちゃんの日記は、未だに母との間で語り草となっている。我が家の食卓にはほとんどメニューに上がらなかったワンタンスープの頻度も、あれ以来増えた。


由香ちゃんの日記はうろ覚えだけど、こんな内容だった。


★ ★ ★ ★ ★


家に帰ると、お母さんが「今日の夕食はワンタンスープよ」と言いました。

私はお母さんが作るワンタンスープが大好物なので、「やったー!」と喜びました。

自分の部屋で宿題をしていると、お母さんがトントンと野菜を切る音が聴こえてきます。

台所へ見に行くと、お母さんは、白菜やネギを刻んでいました。

「お夕飯はまだ?」と聞くと、「お父さんが帰ってきたらね」とお母さんは言いました。

私はまた宿題を始めたけれど、やっぱり我慢ができなくてもう一度お母さんの所へ行くと、今度は、刻んだ野菜とお肉を混ぜていました。

「私もやりたい」と言って、ワンタンの皮でお母さんが刻んだ野菜やお肉を包むのを手伝いました。

それからお姉ちゃんが塾から帰って来て、一緒に宿題をしていると、コトコトという音と一緒に、生姜の良い香りがして来ます。

お腹がグゥとなります。

お父さん、まだかな。

ガマンできずにお鍋の蓋を開けると、モワーッと湯気が出て、ワンタンスープがグツグツ煮えています。

あぁ良い匂い。

お父さん、まだかな。

グツグツ、グツグツ。

ガチャッ。

玄関のドアが開く音がしました。

あ、お父さんが帰って来た!


★ ★ ★ ★ ★


驚くべきことに、『ワンタンスープ』のタイトルで書かれた小学4年生の日記は、お父さんがドアを開けた描写で終わっていたのだ。

そんなことがあろうか。

味の感想はどうした?

刻んだ野菜が包まれたワンタンの入った生姜風味のワンタンスープの感想を知ろうとしている読者の期待を清々しく裏切る結末。


今になって思えば、由香ちゃんは、本当はその続きも書きたかったのだけれど、文字数が限度に達した可能性は否めないのだけれど、ともあれ、あの作文に感銘を受けてくれた川俣先生の感性にも感謝している。

作文が得意だっただけの私が今もこうして文章を書くことに固執しているのは、あの日由香ちゃんが書いた日記を川俣先生が配ってくれたからだと思っている。


肝心の由香ちゃんはその2ヶ月後、お父さんの仕事の都合で転校して離れ離れになった。別れの時、私達は少し泣いた。

10年くらい文通をしていたけれど、大人になり、いつの間にか音信不通になってしまって、次に繋がれたのがそこからさらに15年以上経ってからの、SNS。

由香ちゃんはお菓子作りが趣味の女性になっていた。ちなみに彼女も私も独身で、彼女は作ったお菓子を、あの時のお母さんに振る舞っているのだそうだ。


「ワンタンスープの日記のことは覚えている?」

なんてことは聞けないけれど、今でも生姜の香りを嗅ぐと、今の私よりも若かった母と9歳の私、そして由香ちゃんと過ごした日々の記憶がよみがえる。

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