彼方なるハッピーエンド

尾八原ジュージ

彼方なるハッピーエンド

 サナミさんのお葬式が終わった帰り道、今にも雨が降りそうだった。

 田舎なのに参列者の少ない、寂しいお葬式だった。サナミさんの享年が五十六歳であったこと、自宅のお風呂で亡くなって、しばらく誰も気づかなかったことなどを、私は斎場で初めて知った。もっと年上の人だと勝手に思っていた。

 バス停でバスを待っていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。傘など持っていなかった私は、仕方なくしばしの間濡れるに任せた。最寄り駅まではバスで十五分もかかるのだ。早く東京に戻りたい、と思った。

 この小さな町に、もう私の実家はない。サナミさんの死を報せてくれたのは町内に住む私の従姉だ。別の土地にいる父にも母にももう、何年も会っていない。会いたいとも思わない。

 コートの肩がじっとりと湿ってくる頃、ようやく一台のバスがカーブを曲がって走ってきた。


 私の両親は留守がちで、私はよく近所に住むサナミさんに預けられていた。当時三十歳かそこらだろう、その頃から彼女は、あの小さな家にひとりぼっちで住んでいた。仕事は何をしていたのか、とか、この辺りに身よりがあったのだろうか、とか、そういうことは何も覚えていない。

 今はどうだか知らないけれど、この辺りは三十過ぎて独身でいる女性に対して、風当りのきつい土地だった。しかも、何かのきっかけでサナミさんがバツイチだということが知れ渡り、「きっと何か悪いことをして離婚されたに違いない」という根も葉もない風評が流れさえした。それでも両親は私をサナミさんに預けた。素行のせいで親戚中からそっぽを向かれており、ほかに預けるところがなかったからだ。

 そして私の知る限り、サナミさんは決して悪いひとではなかった。


 さほど親しくもない人間に幼子を預けられて、サナミさんはさぞ迷惑したことだろう。それでも彼女は、私に対しては嫌な顔ひとつ見せたことがなかった。手料理を振舞ってくれたり、遅いときはお風呂に入れてくれたりした。

 サナミさんの家には『シンデレラ』や『しらゆきひめ』などの大きな絵本があった。幼い私は、大人がどうしてこんなものを持っているのだろうと疑問に思ったものだ。サナミさんは「この本の絵が好きだから」と答えた。

 絵本の最後は「しあわせにくらしました。めでたしめでたし」で終わることが多かった。サナミさんは時々ページを閉じた後に「この続きはないのかしらね」と言ったものだ。

「つづきって?」

「シンデレラは結婚して、その後どんな風に過ごしたのかなって。もしかしたら王子様とけんかするようになって、あんまりしあわせじゃなくなったかもしれないじゃない」

「ふうん」と言いながら、私は両親のことを思い浮かべる。顔をあわせるとすぐに無視してすれ違うか、口喧嘩ばかりしていたふたり。もしもシンデレラの続きがあって、王子様との仲がこんな感じなら、しあわせではなさそうだな、と思った。

「ハッピーエンドかどうかなんて、死ぬまでわかんないよねぇ」

 そう言ったのはサナミさんで、私は未だにその言葉をよく覚えている。

 愛するふたりが結婚して、めでたしめでたし。でも人生はそこで終わるわけじゃなくて、祝福の鐘が鳴ったあとにも延々と続くのだ。

 本当のハッピーエンドは遠い。本当にハッピーで終われるのかどうか、死ぬまでわからない。


 やがて私は小学生になり、中学生になって、サナミさんに預けられることもなくなった。私たちは疎遠になり、生活パターンが変わったために、道ですれ違う機会すらもめっきり減った。

 だから私はサナミさんの最期が幸せなものだったのかどうか、知らない。遺体は損傷が激しく、彼女の死に顔すら見ることができなかった。遺影は何かの証明書の写真をむりやり引き伸ばしたような代物で、画像が粗いうえに表情に乏しいものだった。

 あんなに世話になったのに。よく知りもしない近隣住民に子供の世話を押し付けられ、それでも優しかったサナミさんが、人生を終える瞬間果たしてハッピーだったのかどうか、私には予想することすらできない。そうだったらいいなと思うだけだ。

 彼女は幼い私に一度だけ話してくれた。

(おばちゃんの旦那さん――元旦那さんか。おばちゃんより大事なひとがいたのね。だから別れたの。あんなにたくさんの人にお祝いしてもらって、絶対しあわせになれるんだと思ったのに)

 ふたりはなかよくくらしました、めでたしめでたしにはならなかったのだと、少なくともサナミさんにはそうだったのだと、私は幼いながらに理解した。


 私の人生の最期がどうなるのか、私だって知らない。

 それがハッピーエンドならいいなとは思うけれど、そんなこと、まだ誰にもわからない。


 四時間も電車に揺られて、ようやく東京のアパートにたどり着いた。

 ドアを開けると、ぴちょん、ぴちょんと水音が聞こえた。バスルームからだ。半開きになっていたドアを開けると、同棲している彼氏がバスタブの中に浸かって眠っていた。床にはお酒の缶がいくつか転がっていて、締め切っていない蛇口から水が垂れている。

 私は蛇口を閉め、バスタブの栓を抜いて、彼氏の頬を叩いた。

「何やってんのあんた、死ぬよ」

「マリがいなくて寂しかったんだもん」

 いい年をした男が、幼児のように泣いている。

「うちで死ぬのやめてよ、迷惑だから」

「ごめん。おっ、追い出さないで」

 あのまま自分勝手に死んでしまうのも、彼にとってはハッピーエンドなのかなと思った。仕事もお金も何にもなくても、お酒でフワフワしたまま死ねたら、それは彼にとっては幸せなことなのかもしれない。私からすれば冗談じゃないが。

 彼氏にバスタオルを押し付け、空き缶を片付けながら、私は「サナミさんならどうするだろう」と考える。彼氏とすっぱり別れるべきなのか、それともこのまま機嫌を取り合って暮らしていくべきなのか、どうか。決断できないまま、こんな状態がもう二年近くも続いている。

 私の人生があとどれくらい続くのか、私自身ですらそれを知らない。なるべく先であってほしい、とは思う。

「色々あったけど、死んだときマリちゃんはとても幸せでした。めでたしめでたし」

 ゴミ箱の中に向けて小声でつぶやくと、バスタオルを巻いた彼氏が「何か言った?」と尋ねた。

「なんでもない」

 雨音を聞きながら私は答える。あの町に降っていた雨は今、東京にも降っている。

 どこにハッピーエンドに至る道があるのかなんて、私にはわからない。ただその道は長くて、行く先はとてもとても遠いような気がした。

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