ネトラレ、キミト、サクラサク。

成井露丸

👥

 歴史景観都市の京都にだって、ラブホテルはある。

 自分の彼女が知らない相手と、そこから出てくることだってある。

 それは確かに、可奈子かなこだった。


 景観に馴染まない白い洋館から、手を引かれて彼女が出てきた。

 手を引く人物は細身で、帽子を目深に被っていた。

 二人は僕に気づかず、手を繋いだまま背を向けて歩きだす。


 思わず「可奈子!」と、声をかけそうになる。

 でも僕はその言葉を飲み込んだ。息と共に、唾と共に。

 無意識で電柱の陰に僕は身を隠した。胸が締め付けられる。


 二人は楽しそうに、肩をぶつけ合っている。

 紺色のコートを着た相手は可奈子より少し背が高い。

 男性としては中程度の身長だ。

 それを隣に見上げる可奈子の横顔は、とても嬉しそう。

 いつもにも増して、可愛かった。


 春先の少し冷たい風が吹く。

 情事の後の火照った身体を冷ますには、丁度良い風だろう。

 三十メートルほど先で、二人が空を見上げた。

 僕もつられて、空を見上げた。


 大学生になって最初の春。

 僕は人生で最初の彼女を、桜の季節に寝取られたみたいだ。


 空には桜の花びらが舞い、向こうに榎村えのきむら可奈子かなこの背中があった。


 *


 可奈子とは予備校で出会った。

 一緒に勉強して、志望校に合格して、京都までやってきた。

 本当は同棲したかったけれど、親の目もあり自粛した。

 彼女は家の方針もあり、一人暮らしはせず、郊外の親戚宅から大学に通っている。


 同じ京都だけれど大学は別々。

 お互いそれぞれの生活があるだろうから、「四月に入ってしばらくは会えないかもしれないね」だなんて言っていた。


 本当は毎日でも会いたいし、毎朝でも抱きしめたい。

 一日の始まりに君がいて、一日の終りに君がいてほしい。

 でも、そういう日々がくるのは、もうちょっと先なんだろうな。

 そんな淡い期待は、時間が経ちさえすれば、叶うものだと思っていた。


 可奈子だって、僕のことを――僕だけのことを好きなはずだから。

 だけど、春の大学生活が始まった瞬間に起きたのは、彼女の裏切りだった。


 *


 一人っきりの薄暗い部屋。

 ベッドの上で、スマートフォンの画面だけが煌々と輝く。


『おつかれ。今日も忙しかったよ。そっちは?』

『私も〜。そっちはサークルとか、決まった?』

『まだかなぁ。そっちは仲良い友達とかできた?』

『うん。あ、女子大だから、女の子ばっかりだよ』


 何故わざわざ、そんな断わりを入れるのか?

 僕は聞いてないよ?

 やましいことがなければいらないよね?

 そういうの?


 不意に、昼に見た君の隣にいた男の姿が、脳裏に浮かぶ。

 繋がれた手、触れた指先、それが彼女の腕を伝っていく。

 穢すみたいに。

 僕だけが触れることを許されたはずの彼女の素肌を。


『やっぱり四月頭は忙しいよな。イベント目白押し』

『だよねー。そっちも?』

『おう。今日もちょっと友人と集まりで。聖護院の方の下宿に集まってた。そっちは?』

『ちょっと友達とお出かけしてたかな?』

『へー。どのあたりに行ってたの? 結構、近くまで来たりして』


 親指を震わせながら文字列をタップする。

 ずっと好きだった彼女を疑う罠を張るみたいに。

 もう少し足を伸ばせば僕の下宿にだって着く岡崎まで来て、そこで君は――他の誰かと寝ていたんだ。


『う〜ん。四条の方? あ、初めて八坂神社いったよ。桜、綺麗だった』

『有名なんだよね? 俺も聞いた。行ってないけど』


 八坂神社の円山公園で桜を見上げる彼女の姿。

 白いプリーツスカートを春風に揺らされた君の背中。

 その隣には見知らぬ男が立っている。手を繋いで。指を絡ませて。


『桜が散る前に、颯馬そうまも行くといいよ。絶対オススメだから』


 「オススメ!」と両手を広げる猫のスタンプ。

 キャラクターのお茶目さが君自身に重なって、たまらなく胸を締め付けた。


 *


 そいつを構内で見かけたのは、三日後のことだった。

 中央キャンパスから東大路通りを挟んだ西側。

 学部の友人たちと昼食を終え、食堂の一階出口を出る。

 ガラス扉を抜けて左折したところ、自動販売機の前にそれはいた。

 あの日と同じ紺色のコートを身に纏って。

 涼し気な顔でコーヒーが入るのを待ちながら。


 二人の友人を「用事を思い出したから、先に行っててくれ」と追いやると、僕は様子を窺った。

 ガラス扉の前で、距離を取りながらそいつを観察した。

 やがて紺色のコートは、自動販売機からカップを取り出すと、口元へと運んだ。


 細められた目はやたらと綺麗だ。

 控えめに言って美男子だと言えるだろう。

 やたら線が細くて、それでいて不健康に痩せているという感じでもない。

 女性のモデルみたいなスタイルだ。僕とは全然違うタイプだ。 

 コーヒーを飲んだ後に吐く息。その赤い唇に目が吸い寄せられた。

 

 同じ大学だったとは思わなかった。

 でもよく考えたら可奈子の学校は女子大なわけで、相手が同じ大学な訳はない。

 「大学が違うからなかなか会えない」と彼氏の僕に言っておきながら、僕と同じ大学の新しい相手に引っかかっていたわけだ。

 僕はなんて惨めなんだろう。


 いや、可奈子はきっと騙されているんだ。この優男に。

 そうに決まっている。

 そうでなくっちゃ、三年間の僕の想いが救われない。

 両手を強く握りしめる。


 唇から紙コップを離すと、そいつは背を向けて歩きだした。


 *


「おい! ちょっと!」


 コンクリートの舗道上、僕は背中から声をかける。

 でも止まらない。きっと自分のことじゃないと思っているのだ。

 だからといって名前を呼ぼうにも、僕は名前を知らない。

 加奈子の浮気相手だってこと以外、僕は何も知らないのだ。


「――ちょと待てよっ!」


 だから思い切って駆け寄ると、僕はそいつの左手首を掴んだ。


「えっ? 何? 誰? ――わっ!」


 振り向いた勢いで、そいつの右手が揺れて紙コップからコーヒーが飛び出した。

 褐色の液体は、そいつの右手とコンクリートの地面を幾ばくか濡らした。


「――あ、ごめん」

「ちょっと、コーヒー溢れたじゃん。危ない! コートに掛かったらど〜すんのさ! 高かっただよ、このコート! 入学祝いでお婆ちゃんに買ってもらったんだから」

「‥‥‥あ、ほんとごめん」


 唇を尖らせて漏らした不平の声は、思っていたイメージと随分違った。

 ちょっと高くて、ちょっと明るくて、透明感のある声だった。

 「鈴を転がすような声」ってこういう声のことを言うのかなって、なんとなく思った。


 ずっと煮えたぎっていた怒りが、不意に鎮められるような、不思議な感覚。

 目の前にいるのは、大切な彼女を寝取った相手のはずなのに。


「――で、誰? ……って、あ……篠宮しのみや――篠宮颯馬くん?」


 不意に呼ばれた自分の名前。逆に驚かされる。

 僕はその左手首を掴んだまま、やおら硬直した。


「なんで? なんで俺の名前、知っているんだよ? お前が」

「――だって、可奈子に聞いたから。君の名前」


 手を引かれたまま、そいつは上目遣いに僕の顔を覗き込む。


 思わず怯む。それはつまり、自分と僕の彼女の交際を認めたのと同義だったから。

 そして、それをなんのてらいもなく口にする図々しさ。

 掴んだ手のひらに汗が滲む。焦燥と恥辱で胸が痛む。 


 ただ右手から伝わる感触は、さらなる違和感を連れてきていた。

 僕が掴むその手首。その肌はとても柔らかくて、思っていたよりも華奢だった。

 可奈子の手首より、細いかもしれない。

 ずっと触れていたいくらいに、さわり心地が良かった。


「可奈子から聞いたって? ……認めるのかよ? お前が――あいつと……浮気しているって」


 それは自らの恋人の不貞を問う疑念の言葉。

 口にすれば現実として確定してしまいそうだから、本当は言いたくなかった。


 でも、ここまで来て有耶無耶にすることなんて――できない。

 僕は思わず、握る手に力を込めてしまう。

 その握力で、そいつは人形みたいに端正な顔を、少し歪めた。


「……イタイよっ! 離してっ!」

「あ、ごめん――」


 その澄んだ声色に弾かれるみたいに、僕は思わず手を離した。

 直後、「なんで僕が謝っているんだ?」とも、思いつつも。

 

 でも次の瞬間。折角離した僕の手を、そいつは逆に掴み返した。

 細くて長い指が、僕の右手に絡まりつく。

 それは可奈子の感触とは違ったけれど、どこか艶めかしさを覚えた。

 驚いてその顔を覗き込む。


「実はさ、――初めて見たときから、君のこと、興味を持っていたんだ。――篠宮颯馬くん」


 そいつは美麗な顔の上で、唇の端を悪戯っぽく釣り上げた。


「ちょっと、こっちに来てよ――」


 流し目みたいに目を細めると、カップに残ったコーヒーを一気に飲み干して、近くのゴミ箱に投げ捨てた。

 そいつはサークル棟の奥へと、僕の手を引いて歩きだした。半ば強引に。


「おい、待てよ! どこ行くんだよ。なんで俺が、お前に引っ張られなきゃ、ならないんだよっ……!」


 一階のコンクリートを、サークル棟沿いに西へと抜ける。

 敷地の西端。目隠しの樹々が植わったフェンスを左折して、僕らはサークル棟の裏側へと侵入した。

 人目につかない建物の裏。そこで立ち止まり、振り返る。


「――『お前』じゃないよ、篠宮くん。僕のことはちゃんと名前で呼んで。――僕は牧島まきしま――牧島まきしまゆう


 牧島は赤い唇を開くと、白い歯を覗かせた。


「そうだね、お察しの通り、君の彼女――榎村可奈子の浮気相手さ」


 妖艶に微笑むと牧島悠は、僕の顔を覗き込む。

 自らの両腕を持ち上げると、それを僕の首周りに巻き付けてきた。

 電流が走ったみたいになって、全身が痺れて動かない。

 まるで金縛りにあったみたいに。


「――そして僕は、君の浮気相手にもなりたいって思っているのさ」


 その美しい顔が近づいてくる。

 思わず目を閉じる。

 唇に柔らかなものが触れた。


 それは優しくて暖かくて、世界の全てが溶けていくような心地さえした。

 やがて口内に生々しい感触が侵入し、二人の唾液が混ざりあう。


 感触が遠のき。僕はゆっくりと目を開けた。


 空には桜の花びらが舞い、目の前には牧島悠の笑顔があった。

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ネトラレ、キミト、サクラサク。 成井露丸 @tsuyumaru_n

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