第19話 道筋

 グライツは、ジオとアンシュリーが海岸に向かって馬を走らせるのを見届けると、何事もなかったかのように荷台の紐を緩め始めた。そして、しばらく目を瞑る。

 暗がりの中でもよく目立つジオのオレンジ色の髪や、アンシュリーの宝石のように輝く瞳を思い出していた。それから、体中の痛々しい傷跡、服の上からも滲む血痕、その鉄色。それらはグライツの中に鮮烈に焼き付いていた。


 ガロン島は単一民族、ガーデル人で構成されている。細く小柄な体躯に浅黒い肌、薄く色づいた黒か灰色の瞳が特徴だ。その他にいるのは、かつて捕虜だったバラバリアの子孫である奴隷たち。

 ジオもアンシュリーも一目で異民族だと分かる。海の外の人間は、ガロの教えによれば災厄をもたらす存在である。子どもだって知っている。

 しかし、グライツは2人を助けた。2人の置かれた状況が、いかなるものかを慮った。血の気の引いた青い顔の子どもを背に、息を切らすジオの姿は、いつの日かのジオに重なった。

 産気づいた馬の代わりに重たい荷台を引く姿、照れくさそうに巨体を丸めて大工仲間と肩を組む姿、ここで働かせてもらえないかと頭を下げる姿、そして、地面に書いたたどたどしい文字の羅列。


 彼は間違いなく災厄ではなかった。彼はただの人間だった。真面目で穏やかな、ガーデル人ではないだけの、ただの青年だった。

「そうだよなぁ、そうなんだよなぁ」

 グライツは夜に零すように独りごちた。


 ガリオネ卿がやって来たのは、それから間もなくのことだった。丸々と弾けそうに肥えた姿が木の陰から見えるすんでのところで、グライツは丸太を縛っていた紐を切り裂いた。

 途端に、成人男性よりもずっと巨大な丸太が辺りに転がる。四方八方に派手な音を立てて転がり、辺り一帯は丸太だらけになった。

 先頭を走っていたガリオネ卿の馬は、突然のことに高くいなないて立ち止まった。後ろに続く奴隷たちも同じようにその場に立ち止まる。

 グライツは目尻を下げて固い白髪を掻いた。そして、わざと情けのない声を出した。

「いやぁ、すみません。しっかり縛ってたんですがね、紐が不良品だったみたいで。しかも拍子に馬に逃げられちまった。領主様、どこに向かっておられるのか存じ上げませんが、そんなにたくさんの人手がおいでなら、どうかこの老いぼれを手伝ってはくれませんかね」

「こっちは急いでるんだ、知ったことか!」

 ガリオネは苛立ちのまま先へ進もうと馬に鞭を打った。馬の栗色の肌が鞭で波打つ。しかし、馬はその場で数歩足踏みをすることしかできない。巨木が転がる中をすらすらと進めるわけがないのは、誰が見ても一目瞭然だった。

「申し訳ないですが、こんな足元じゃあ馬も進めませんなぁ、ええ」


 ガリオネは憎々し気に歯を軋ませると、今度は地面に向けて鞭を打ち付けた。

「お前たち、さっさと片付けろ!」

 奴隷たちは面面めいめい馬を降りると、急いで丸太に手を掛けた。しかし、大の男が2人がかりで持ち上げようとしても、びくともしない。たまらず、そこかしこで唸り声があがる。


 グライツはいかにも申し訳なさそうに、すみませんと繰り返しながら、彼らに加わった。視線を辺りに滑らせると、ガリオネ卿も奴隷たちも、その場で足止めを食っている。


 内心胸を撫で下ろしたのも束の間、見たことのない獣が鼻を鳴らしているのが視界に入った。

 ジオにも引けを取らない巨体に、狐色の毛をした獣——ガロン島では見たことのない獣だ。口からは鋭い牙が覗き、低い唸り声が漏れる。顔の皮膚が一部焦げており、生々しい傷が痛々しい。気が立っているのか、短い呼吸を何度も繰り返している。

 見るもおぞましい獣だ。あんな牙に食いつかれたら、人間なんて簡単に——。

 グライツは想像だけでも身震いした。


 虎は、しきりに鼻を地面にこすりつけている。どうやら『誰か』を探しているようだ。

 『誰か』。それは考えるまでもなかった。グライツは祈るような気持ちで地面の1点を見つめた。


 虎はうろうろと歩き回ると、荷台の車輪の前で立ち止まった。グライツの祈りなど露知らず、念入りににおいをかぎ、ジオとアンシュリーが向かった方向へ向けて顔を上げる。

 火傷だらけの口元が引き上がり、長い牙を露わにして獣は一声吠えた。確信めいたものを示す、堂々とした叫びだった。辺りの奴隷も、ガリオネ卿も、動くことすらできず、その姿に吸いつけられた。息が止まっているような、身体が凍り付いてしまうような、本能的な恐怖が全身を支配していた。

 火山虎は、丸太の山を飛び越えて夜の森を駆けていった。甘い香りを漂わせた獲物を追って。



 時を同じくして、ジオとアンシュリーはようやく海にたどり着いていた。2人は息を整えながら、海の前に立ち尽くしていた。汗ばんだ身体を夜風が冷やしていく。

 夜の海は昼間以上に人気がなく、辺りには静かなしじまが穏やかに広がるばかり。耳を澄ませば、寄せ返す波と渦潮の音だけが聞こえてくる。

 アンシュリーは潮の濃い香りで肺を満たした。航海民族のアンシュリーにとっては懐かしい香りだ。大きな呼吸を繰り返し、肺の中の空気をすべて入れ替える。それから、水平線の先を見据えた。


 すると、赤い星が1つ、叫ぶように輝いている。

 いいや、他の星は1つだって見当たらない。燃え盛る輝きが、他の星々の光を喰い尽くしていた。

 赤星は月よりも強烈に海面を照らしている。海面に反射する光は、所々波に揺れながらも、まっすぐ水平線の1点へ向かっていた。

 アンシュリーは、応えるようにして、真珠層の瞳でそれを見つめていた。


「あそこに繋いである船へ乗り込もう。僕が乗ってきた船だ」

 ジオは言われたとおり、すぐ近くに繋いであった白い小船にアンシュリーを下した。桟橋の紐を解くと、小船は大きく1度揺れた。

 波に合わせて船が岸から離れる。それは気ままに泳ぎ回る魚の動きによく似ていた。アンシュリーは素早く、舵や甲板、燃料の具合を確かめ、よし、と拳を握った。

 ガロン島から最も近い大陸まで、十分に航海ができる。大陸には、仲間のリリアナがいるはずだ。波も落ち着いているから、すぐに合流できるはずだ。

 何より星が味方をしている。


 そこで、アンシュリーははたと気が付いた。ジオが乗ってこない。

 桟橋へ目を向けると、ジオはその場に立ち止まっていた。傷だらけの巨体は立ち尽くしたまま、乗り込んでくる気配がない。

 空に灰を投げた色の瞳が、アンシュリーを映している。


「ジオ、早く」

 その場から動かないジオに、アンシュリーは不安そうに手を伸ばした。あと1歩踏み出せば乗船できる。しかし、その1歩を踏み出さない。

 操縦をしなくても、引き波はアンシュリーを乗せた船をゆっくりとガロン島から離していく。ゆっくりと離れていく距離に比例して、アンシュリーの心臓が鐘を打つ。

「ジオ、急いで」


 アンシュリーの脳裏に、最悪の事態が過る。自然と声が震えた。ジオはアンシュリーの言葉に答えることなく、腰の槍に手を掛けた。


 気が付かないふりをしていた音が、すぐそこまで迫っている。四足の足音、爪が地面に擦れる音、興奮し切った咆哮——。


 ジオに後ろから巨大な影が喰いかかった。尖った牙が深く首元に沈み込み、爪は両肩を抑え込むように巻き付いている。

 火山虎は熱い息を吐き出しながら、ようやく獲物を手にした。

 噴き上がったのは、ジオの熱い血潮だった。

 アンシュリーは船の端へ身を乗り出すと、限界まで手を伸ばした。


「僕は行かない!2人で行くんだ!ジオと一緒だ!」


 真っ直ぐにジオを見つめながら、少年は叫んだ。細い喉が裂けんばかりの大きくひび割れた声だった。


 その背では、赤々と燃える星が手をこまねくようにして輝いている。ジオには見えない、アンシュリーにしか見えない星が。

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彼方なるハッピーエンド らくがき @rakugakidake

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