19

「ここなら見つかることもないでしょう。しばらくの間、留まりなさい」

 弓場に連れて来られたのは粗末な山小屋。薪の暖房があるほかは丸木の椅子と簡素な机があるばかり。森と畑のただ中にあるくせに農機具などはない。あるのは大量の紙の束。背中を麻紐で閉じ合わされた手作りの本。挿絵入りの絵本や教科書もある。ぼくはそれを良く知っていた。読んだこともある。外の世界の知識が記された、ぼくの頭の中身のほとんどすべてといってもいい。

 ぼくはその絵本を通じて外を知った。動物を知り、街を知り、社会を知り、人を知った。時折、印刷された本物の本を読むこともあった。その中には写真集もあった。しかし、そのどれにもぼくのことを記してあるものはなかった。

 弓場は床を剥がして、隠されていた服を手渡す。埃を被っているが、しっかりとした生地の服だ。

「これは松丸が着ていたもの。すこし古いけれど、今のあなたにはちょうどいいはず」

「あの……弓場さんがぼくを、あの繭からだしてくれたんですよね? 本や声で外のことを教えてくれたのも」

 弓場はぼくに火の傍へ座るよう椅子を勧める。薬缶を火にかけると、彼女は重たい仕草で向かいに腰かけた。外見以上に体が年老いているのか、彼女は苦しそうに腹部をさすった。

「ぼくは誰なんですか? あなたは知っているはずだ。ぼくはぼくのことを知りたいんです」

「話すことはなにもない。あなたは誰でもない。それはとても幸せなことです。この地の呪いと無縁でいられる。なにも知ることなく、なにに囚われることもなく、真っ白なままで逃げていける。私はそうあることを望んでいます。だから、あなたを逃がした」

「ぼくはとっくに巻き込まれた。ぼくはあの繭にずっといた。ぼくに知識を与えたのはあなただ。関係ないはずがない。この畑は異人の聖地で、畑の植物は霊薬の原料に違いない。さっき、あなたはぼくのことを阿弥陀様と呼んだ。それはどういうことですか? ぼくは松丸聖でもないのですか?」

「あなたは霊薬の話や松丸聖のことをどこで聞いたのです? 廃堂から外への道筋を辿ったはずのあなたが、どうして彼らと戻ってきてしまったのですか」

 ぼくはこれまでのことを話した。誰かに話すことでぼくは自分の経験を整理していく。言葉が脳内で溢れすぎて、うまく文章にならない。時折時系列も怪しくなりながら、ぼくは御堂から抜け出て、水路を脱したまでの話を弓場に聞かせた。不思議と、彼女には何でも話すことが出来た。それどころか、聞いてもらいたいとすら。

 彼女から懐かしい香りがしたせいかもしれない。木の皮と炭の匂いだ。ぼくに世界を開かせた、外への興味を抱かせた絵本の匂い。

 弓場は口を挟まず、静かに耳を傾けた。その表情は次第に険しくなっていく。

 黒江と出会い、松丸と呼ばれたこと。仕掛け矢で那智が撃たれ、谷で一夜を明かしたこと。生き仏の調査を理由に村を目指したこと。発砲事件、異人郷の伝説と掟、宴の夜、田澤の殺害、犯人探し、黒江らの目的、そして銃撃。いくつもの感情と疑問が浮かんでは言葉となって吐き出される。

 日を跨ぐほど長いように思えたぼくの話は、薬缶のお湯が沸く湯気で終わりを迎えた。思えば黒江らと出会ってから、まだ二日しか経っていない。長い旅路を歩いてふと振り返ったような。足元に点々と続く足跡。ぼく。ぼくが歩いたのは、まだたったこれだけ。

 弓場は木製の湯呑にお湯を注ぐ。ぼくに手渡した後で、長い溜息をついた。

「まだ話すべきか迷っている。あなたにはあの子を連れて、怨嗟の渦から逃げて欲しいのです。きっと、ここで自らの因縁を知ることは、あなたのこれからの生に影を落とす。他人の苦しみを背負う必要はない。これはあなたの罪ではない。あなたの苦しみではない」

「あの子って……阿弥陀様のことですか?」

「あの子もあなたと同じだ。何も知らず、また、何者でもない。抜け道を通って、もうすぐこちらに来ることになっています。彼女は外への好奇心が人一倍強い。上手くやっていけるはずだ。忘れなさい。ここで起きたこと、見たもの、聞いたこと。すべてを忘れて山を下りる。それがあなたにできる唯一のことだ」

「忘れるなんてできません。この記憶はぼくの一部だから。この場所は間違いなく、ぼくの一部だから」

「……平行線ですね。逃げるなら、西家の意識が侵入者に削がれている今しかない。この聖地も、村も、その歴史さえも、明かされることなくひっそりと沈んでいくべきなのです。地下の泉の、奥深くに」

 弓場は力なく微笑んだ。くたびれた、年老いた笑みだった。

 そのとき、小屋の扉が蹴破られる。不躾な侵入者は甲高く嗤う。

「そんな都合のいいことはさせないわ。彼を、私たちの御本尊様を勝手に逃がされては困りますねぇ」

 戸口に立っていたのは見知らぬ女。着ている服は黒江と同じで、背格好も似ているが、全くの別人だ。彼女は阿弥陀様の少女を右腕で締め上げ、左手に持った拳銃を少女のこめかみに突きつけている。

「誰だ、あんた」

「酷いなぁ、ほんとうに酷いなぁ……私のこと、私たちのこと忘れちゃっているなんてさ。私とあなたは同じだったのにさぁ、悲しいね。残酷だよねぇ。ほんとうに恨めしくて、やんなっちゃうなぁ」

 女はそう言いつつ、銃の踵でなんども少女を殴りつける。白い肌から血を流し、少女は意識がもうろうとしているらしく、ぐったりと項垂れている。

「やめろッ」

「近づいちゃ駄目。まだ、駄目だよ。そうしないと撃っちゃうからね」

 そういって彼女は発砲した。弓場の膝が弾けて崩れ落ちる。

「お前は跪け。私たちの顔を拝む許可は与えていない。この罪人が……仏はお前に慈悲を与えない」

「どうして……生き延びた人間は、ひとりも、いなかったはず……」

 弓場が歯を食いしばって呻く。

 ぼくは弓場の傷口を抑えたけれど、血が溢れて止まらない。太い血管を撃ち抜かれたに違いない。ぼくは自分が脱ぎ散らかした服で傷を縛る。服の上から血が染み出す。

 弓場は浅い息の合間にも言葉を吐き出す。

「そ、そうか。あなたが、黒江という女に、ここのことを、教えたのか。やっと合点がいった。復讐ですか。きっと、私たちを憎んで、滅ぼしにきたのでしょうね。せっかく、外に出られたのに、あなたは因果から、呪いから逃げられなかったのですね」

 弓場は涙を流し、地に伏して南無阿弥陀仏、と唱えた。

「弓場祥子……いえ、議員堂爆破テロ事件の首魁、日本新生会構成員の本田トモヨ。あなた、外ではとっても有名人だったからすぐにわかったよ。西家都のことも、松丸聖のことも。あんたたちが何をやって、ここに流れ着いたのか。よぉく知ってる。今さら善人ぶろうたって無理なことだ。それに、七年前にお前が計画を遂行していれば、これほど苦しむこともなかった。松丸聖は死なずに済んだし、西家都が生きていることも、この子が阿弥陀様になることもなかった」

 女は少女を腕で締め上げたまま、壁に背を預ける。開いた扉から何か聞こえる。大勢の人間達の叫び声のようなものが。

「村人たちを扇動して、西家を襲うつもりか」

「いいえ、彼らはあくまで目撃者。私の顔を見てもらうためだけに助けた。私の奇跡を見せつけるために必要な証人」

「奇跡?」

 女が扉の方に目を向ける。そこにはずぶ濡れの黒江が立っていた。髪を掻き上げて、水を絞る。

「それなりに探っていたつもりだけど、どこにもなかったわ。そこの女が隠した爆弾ってやつ。阿弥陀堂だけは踏み込めなかったから、あるとするならあそこだけど」

 黒江は女に向けて話しかける。彼女たちは通じていて、仲間のように振舞っている。

「ふぅん。ねぇ、どうなの? 七年前の起動するはずだった、あなたが怖気づいてスイッチを押せなかった、西家都――私たちの本地を吹き飛ばすはずだった仕掛けは残っているの? いいえ、完成したのかしら。完成したんでしょうね。あれだけ大量の生石灰を用意しているんだもの。できるんでしょう、水素爆発。そんな装置を作るぐらいわけないはず……ねぇ、どこにあるの?」

 女は弓場、彼女の言うところの本田に問いかける。

「わかっているわ。あなたの性格なら、彼を逃がした後に、被害者の会の人間達もまとめて吹き飛ばすつもりだったのでしょう。自分ごと、派手な心中をするつもりだった。麻薬を焼き払って、跡形もなく。けれど、彼が戻ってきて計画が狂ってしまった」

 女は終始ねっとりと喋る。愉快そうに首を傾けて、時折壊れたように身体を震わせる。黒江は静かに立ち尽くす。濡れた体でも寒さを感じていないかのようだ。ただ冷たい、暗い夜闇のような眼を向けている。

「なんなんだよ、いきなり出て来て。殴ったり、撃ったり。あんた、めちゃくちゃだ」

「ああ、そうだよねぇ。まだなんにもわからないもんねぇ。ぜんぶぜんぶ、話して聞かせるよ。あなたには全部知って欲しい。全部知らなきゃ。理由もわからないまま、苦しむのはつらいから。私はね、散々考えたよ。私の苦しみの理由を。振るわれる暴力の訳を、散々考えて考えて……ああ、こいつらが全部悪いんだなって。だから、西家都を殺さなきゃ」

 女が語ったのは暗闇の歴史だ。

 この地に渦巻く呪いの記憶だ。

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