呪いの因果

緑の聖地

18

 体の感覚が鈍くなってきた。暗闇のなか体を幾度もぶつけ、絶え間なく押し寄せる水流に身を削られる。浮かび上がっては、また沈む。逆巻く水流から顔をのぞかせる一瞬で肺を膨らませる。

 眠たい。体とともに、意識も沈んでいきそうになる。

 何かを考えることも億劫になる。

 訳も分からないまま濁流に押し潰されてしまう。ぼくはなぜ、こんな所にいるんだ。ぼくはどうして、こんなことになっているんだ。なにも知らない。なにもわからない。それは、それだけはもう嫌だ。

 水流のなかで瞼をこじ開ける。

 眼から脳に、直接水の冷たさが送り込まれる。あまり長くはもたない。この水路が何処まで続くのかもわからないが、あと数分も浸かっていれば体が動かなくなる。そうなれば確実に死ぬ。

 暗闇に閉ざされた視界の中で、ちらと波間に光が見えた気がした。水しぶきを見間違えたのか。瀕死の脳が見せた幻影か。そんなこと確かめようもないが、とにかく必死で水を蹴った。なんでもいい。がむしゃらに手を伸ばした。

 指先にわずかな温かさを感じた。

 なけなしの握力で掌を引き締める。なにか固くねじ曲がった形のものを掴んだ。掴んだはいいものの、体を引き上げるまでの力はない。もう駄目かと諦め、沈むに任せた。今度は靴底がなにかを踏んだ。眼を開けてみれば、そこは水路の底だった。いつのまにか水深が胸よりも浅くなっている。もしかして、暗かっただけで、水路自体ははじめから足が着く深さだったのではないか。

 安心したら、少しだけ体が息を吹き返した。

 ぼくが掴んだのは水路に張り出した木の根。ここが水路の出口なのか、はたまた天井が崩落しただけなのか。とにかく死ぬ前に体を水から出さなくては。万全の体調なら、ひとっ跳びであがれるような高さ。木の根にしがみついて、虫のように這い上がるしかない。

 濡れた服を脱ぎ捨て、呑んだ水をいくらか吐き出せた。朦朧とした意識で辺りを見回す。薄い光が差している。森だ。しかし、村に続くまでの鬱蒼とした樹海ではない。適度に光の差し込む、明るく下草の払われた、人の手が入った森だ。ぼくはこの森を知っている気がする。

 芯から冷え切った頭も陽の光で暖まり、少しずつ回転を取り戻していく。より仔細に周囲を観察する余裕も出てきた。

 森には等間隔で生えた樹木の木陰に収まるように、細かく区切られた畑がある。こんな山間の斜面を均し、階段状に区切り、なにかの植物を植えている。しかも、雑草はほとんどなく、枯葉を腐らせた栄養の豊富そうな黒い土をしている。植えられているのは実のなる野菜や、根菜の類いではなさそうだ。葉が食べられるかはわからないが、筋張って固そうな葉の植物だ。特徴的な尖った鋸状の葉が五枚から七枚で、手を広げたような形をしている。その植物が一面に生い茂っていた。

 体を乾かすまでこの場に留まりたかったが、水路から追手が来ないとも限らない。それにこれだけ整った場所なら、人が近くに住んでいるに違いない。友好的とは限らないけれど。

 移動の最中、ぼくは水路に落とされる前の出来事を整理していた。

 ぼくは国見が田澤殺しの犯人であることを突き止めた。証拠もあったし、本人も認めた。問題はそのあと。国見は自分が裏切り者であることを否定した。田澤は殺したけれど、銃弾を消失させ、黒江ら調査隊の情報を村に漏らしていたのは彼ではないらしい。そのすぐあとに銃で襲われたことから考えても、国見の言葉は嘘ではないのだろう。暗闇のなかで行われた無差別な銃撃は、ぼくら全員を殺すつもりだったとしか思えない。ぼくらは常に監視されていて、いつでも襲える状態にあったのだ。村人はその機会を伺っていた。なにもかも黒江の考えていた通りだった。

 ぼくは殺人者と裏切り者は同一人物だと考えた。殺人には村の協力が必要不可欠だったし、銃弾にみられる裏切り行為は村側の人間でなければやる意味がない。これらが別々だとするなら、国見は新たに村と協力関係になったということになる。寝返ったのか、取引か。

 ここで引っ掛かるのは黒江の示した『手立て』の存在。どういう内容かわからないけれど、それは確かに効力を発揮していたのだ。いつでもぼくらを殺せるのに、それを猶予していたことは今しがたはっきりした。その『手立て』の鍵を握る人物が判明しない限りは襲ってこない。そういう話だったはずだ。

 彼女はこの点に疑問を覚えていた。『手立て』を利用したいと考える西家都が軽率に誰かを殺すとは考え難い、と。仮に『手立て』の鍵が判明しているなら、さきほどの襲撃はもっと早まっていただろうとも。西家都は鍵となる人物を殺さず捕らえ、懐柔するなり、従わせるなりしたかったということなのだろう。

 そして、銃撃が始まる直前、微かに聞こえた呟き。

『そうだったのか』

 誰かが、確かに、そう言ったのを聞いた。

 つまり、銃撃がはじまる直前の、まさにあの時点で『手立て』の鍵に気付いたのだ。それから行われた無差別な乱射。あの場の誰かを生かす気がない行為。『手立て』の鍵は田澤だったに違いない。もう死んでいるなら、この場の誰も生かす必要はない。黒江の語る西家都の計画通りの展開だ。

 銃撃の主犯を予想通り西家都とするなら、彼女は鍵が田澤であることを知らなかった。誰が鍵か知る前に殺人が起こってしまった。それは彼女の計画とは異なるはずだ。国見の殺人と西家都の計画は利害が一致していない。しかし、国見が田澤を殺すには、宴で盛られた毒を回避するという、絶対に村側の協力が不可欠な工程が存在する。

 西家都と国見の殺人に協力した人物は別にいる?

 村のなかでも争いがあって、西家都と反する勢力がいるのだろうか。

 西家都がぼくらを生かす価値がないと決めた以上、生き残るにはなんらかの手立てが必要だ。村の勢力争いを利用するか。それとも、このまま逃げ切るか。水路をどのぐらい流されたのかわからないが、大空洞からさほど離れていないはずだ。

 それに裏切り者の存在。ぼくを水路に突き落としたのは黒江だったはず。黒江と国見以外のふたりのうちどちらか、ということになる。山素か、那智か。こうなってくると矢毒で看病されていたという那智が怪しく思えてくる。彼は確かに怪我を負っていたが、ほんとうに毒が塗ってあったのか。山素にしても怪しい所はある。突然の独断に発砲。那智を罠に誘導することも、山素なら容易いことだったはず。どちらも怪しいところがあり、どちらとも断言できない。もし、彼らのうちどちらかが生きて目の前に現れるようにことがあれば、敵だと疑わねばならない。言葉より先に逃げるべきだ。

 黒江は生きているだろうか。ぼくを水路に落としたのだから、彼女も後を追って入ったと思うが。

 とてもではないが、彼女を水路の前で待つような胆力はない。流れて来るのが彼女とは限らない。それに出口についても、一か所だけとは限らない。まずは自分の身の安全。人の心配にまわせる余裕はない。

 畑のなかを移動し、なるべく見通しの利く畦道に出ないよう動く。葉の隙間から辺りを伺う。

 先ほどから鼻を痺れさせる甘い匂いが漂ってくる。寒さから脱し、感覚が戻ってきたせいなのか。進むにつれ芳香は強まっていく。畑の黒い土は柔らかく、足音を消してくれたが、代わりにぼくの足跡をくっきりと地面に残す。何度も後ろを振り返り、追われていないことを確かめる。

 それにしてもこの匂いは良くないものだ。思考を鈍らせる。昔の自分に戻ったみたいになる。ぼんやりと眠っているような。なにも知らず、なにもわからず、ただそこにあるだけのなにか。人間でも、ぼくでもない。漂っているだけで、生きているのかも曖昧だったころの。

 どれだけ緑を掻き分けただろう。

 わかったことは、この畑の周囲は樹海だということ。いまの体力では誰かに見つからずとも、迷った挙句野垂れ死んでしまうだろう。逃げるにしても、このまま藪を突っ切らない冷静さはあった。太陽がみえるのは畑のなかだけ。樹海では方向感覚を見失う。毒矢の仕掛けが頭をよぎる。村は犯罪者の根城だ。生きて返さないための罠があっても不思議じゃない。

 引き返して人家を探すことに。ここが西家都の手が届かない場所であることを願うばかりだ。

 今度は畑作地の中心に向かって進む。こんな山中どこが中心か分かったものではないが、出来る限り水路から離れたい。

 もしかすると、ここが田澤の探していた聖地だろうか。

 阿弥陀様である少女も水路を辿れといっていた。

 田澤の話にでた聖なる植物は、この畑の作物のことかもしれない。あまり神聖な感じはないのだけれど。

 物思いにふけっていると、不意に背後で葉が揺れた。

 何かが近づいてくる。こんな見通しの悪い場所で、誰とも知れない人間に近づかれたくない。

 もう自分の気配を隠すことも忘れてひた走った。枝葉を掻き分け、崩れ落ちそうな体で必死に走る。息が簡単にあがる。四肢に力が入らない。それでも生への執着がぼくを走らせた。

 緑の帳があがり、視界が開ける。

 そこにあったのは巨大な繭だ。

 金属の格子で編み込まれた丸い檻。外側は漆喰が塗り固められた、白い繭。なにものも触れることができず、なにものも侵入することを許さない。そして、閉じ込めたものを逃がさない。白くて、分厚い。外と内を隔てるまどろみの殻。

 その繭には亀裂が入っていた。

 なかに閉じ込めていたものが逃げ出したのだ。

 閉じ込められていたものは。逃げ出したものは。

 ぼくだ。

 この繭はかつてぼくが破ったものだ。

「どうして戻ってきてしまったのですか」

 背中越しに声を掛けられる。

 振り向いた視線の先には、深い皺を刻んだ弓場の姿があった。

「松丸聖……いえ、我らの阿弥陀様」

 彼女は静かに涙を流した。何故気付かなかったのだろう。ぼくはそのしわがれ、苦悩に満ちた声をよく知っていたはずだった。

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